「坂の上の雲」
二十八サンチ榴弾砲
NHKが総力を結集して制作するスペシャルドラマ「坂の上の雲」の放送が,2009年11月29日(日)から始まった。原作は司馬遼太郎が10年の歳月をかけ書き上げた壮大な物語。 「坂の上の雲」は明治という時代に,国民ひとりひとりが少年のような希望を持って国の近代化に取り組み,日露戦争を戦った物語。1回1時間30分,全13回を3年にわたり放送する大型番組。 放送は大河ドラマの時間帯。第1部第1回は「天地人」完結後の翌週11月29日(日)【総合テレビ】午後8時から9時30分,年内5回にわたって放送される。2010年は「龍馬伝」完結後,第2部全4回。2011年は「江〜姫たちの戦国〜」完結後,第3部全4回が放送される予定。 日本は今,社会構造の変化や価値観の分裂に直面し進むべき道が見えない状況が続き,国家や民族のあり方をめぐって混迷を深めています。 「坂の上の雲」には,今の日本と同じように新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した明治という時代の精神が生き生きと描かれています。この作品に込められたメッセージは,日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いありません。 |
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NHK公式サイト・スペシャルドラマ「坂の上の雲」から要旨転載 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は小説「坂の上の雲」を今から13年前の1996年,通勤電車の車中で,約半年がかりで読破した。文藝春秋刊,第一巻から第六巻まである長い物語は,それでも私を飽きさせることはなかった。そこに登場する政治家,軍人,実業家,文化人,そして庶民までもが,私欲よりも日本という国家を思い生きていたように感じた。 原作のドラマの舞台は四国の伊予(現在の愛媛県)から始まる。伊予松山出身の3人の若者達が主人公。のちに,日露戦争の日本海海戦を圧倒的勝利へと導いた秋山真之。その兄で「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古。閉塞的な歌壇・俳壇に風穴を開け,日本文学に新風を吹き込んだ正岡子規。しかしながら,子規が登場するのは第二巻迄,第三巻以降はもっぱら日露戦争が中心とも言える物語。 ところが,NHK松山の放送予定と「あらすじ」を見ると,原作とは趣が若干異なっているように感じられる。子規が逝くのは,原作では第二巻だが,放送予定では第7回。その間,原作では存在感の薄かった?子規の病床を支え続けた妹の「正岡律」,秋山兄弟の母「貞」,好古の妻「多美」等の女性の登場場面が多くなっているようだ。 どうやら放送前半では,3人の若者と女性達の生き様を中心にドラマは展開。後半になって日露戦争が登場するが,「二〇三高地奪取」「旅順陥落」「日本海海戦勝利」以外の戦争場面はほとんど省略されるようだ。このドラマが,戦争賛美との批判を回避する狙いもあるのだろう。 この小説には,横須賀市に保存公開されている戦艦「三笠」の他に,ここにご紹介する観音崎砲台の二十八サンチ榴弾砲が登場する。ところが,ドラマに「三笠」や「榴弾砲」が登場するのは,再来年の2011年秋から始まる第3部第10回「旅順総攻撃」以降と思われる。気長にこの壮大なドラマを楽しみたいと思う。 |
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私が「坂の上の雲」を読んだのは現役のサラリーマン時代。定年退職後,観音崎公園のボランティアガイド・フィールドレンジャーになり,観音崎の砲台跡について調査する過程で,この小説に観音崎砲台に据えつけられていた二十八サンチ榴弾砲が登場したことを思い出した。 観音崎砲台の二十八サンチ榴弾砲が登場するのは第四巻「二〇三高地」の140〜142頁と第五巻「会戦」の231〜232頁。小説によれば,この榴弾砲は「二〇三高地奪取」,「旅順要塞陥落」,「奉天決戦」において,大きく貢献したと記されている。二十八サンチ榴弾砲は観音崎のどこの砲台に据えつけられていたのだろうか? |
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飯塚羚児画 (少年倶楽部第27巻第1号付録から転載) 昭和15年1月1日発行 |
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二十八サンチ榴弾砲は観音崎のどこの砲台に据えつけられていたのだろうか?私がこのことに関心を持った2004年5月の時点では,フィールドレンジャー仲間の関心は薄く,場所を特定できる人は誰もいなかった。 そして1年後の2005年5月,東京湾海堡フアンクラブ主催の「観音崎砲台跡群を訪ねて」と題する見学会に参加して,頂いた資料からその疑問が氷解した。観音崎公園には明治時代に築造された砲台が幾つか残っているが,資料によれば,二十八サンチ榴弾砲が据えつけられていたのは第三砲台(現・海の見晴らし台,旧第一展望台圓地)の4門だけ。他の砲台・堡塁にあったのは臼砲・加農砲・速射加農砲だと判明した。このあと,USO・News「巨砲復元?」を作成した。 |
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第三砲台(現・海の見晴らし台,旧第一展望台圓地)トンネル入口 |
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トンネル入口右側のプレートは「第一展望台圓地」のまま |
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トンネル内のレンガはイギリス積で一部は素堀のまま |
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掩蔽壕のレンガはイギリス積 |
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正面が第三砲台跡 |
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二十八サンチ榴弾砲・砲台概略図 出典:原剛監修「歴史群像 特別編集 日本の要塞」 |
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揚弾口のレンガはフランス積 |
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小説の第五巻231〜232頁には「〜大本営では,東京湾の観音崎砲台のベトンを割り,砲を解体して旅順へ送った。〜」とあり,榴弾砲が据えつけられていたのは第三砲台だけと判明したことから,私はそれ以降,ご案内するお客さんには「ここに据えつけられていた二十八サンチ榴弾砲が,日露戦争勝利に大きく貢献しました」と,得意気に説明していた。 ところが,このことを史実的に検証を試みた人が現れた。この事に興味を持たれたフィールドレンジャー仲間がお二人,それぞれ別個に文献やネット等であれこれ調べた結果,「二〇三高地奪取」と「旅順要塞陥落」に使用された榴弾砲は「観音崎砲台のものではない」との結論で一致した。 |
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記念艦「三笠」艦内に飾られていた榴弾砲の写真 |
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そのお二人はフィールドレンジャー仲間の安田昭さんと安田直彦さん。たまたま両者安田姓だが,血縁関係はなく,調査も全く別々に行われた。その調査結果によれば,「二〇三高地奪取」と「旅順要塞陥落」に使用された榴弾砲は,観音崎砲台のものではなくて,横須賀市内にある米ヶ浜砲台と箱崎高砲台のものだったことになる。私にとっては青天の霹靂だった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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観音崎公園のガイド役フィールドレンジャーとしてはなんとも残念な調査結果ではあるが,お二人の資料を拝見すると,歴史的な事実は否定し難いようだ。司馬遼太郎の小説を鵜呑みにしていた私としては,お二人のご努力にはただただ頭が下がる思いだ。 司馬は小説を書く時,膨大な資料を集め,小説の舞台となる場所を旅したと聞く。その司馬が何故「〜大本営では,東京湾の観音崎砲台のベトンを割り,砲を解体して旅順へ送った。〜」と書いたのだろうか? これは私の推測だが,司馬は「二〇三高地奪取」と「旅順要塞陥落」で使用された榴弾砲が,米ヶ浜砲台や箱崎高砲台などのものであったことは,百も承知の上でそう書いたのだと思う。その理由として小説「坂の上の雲」第四巻140〜141頁に次のように記されていることをあげたい。 「海防」という危機意識を籠めた言葉は,江戸中期以後,ロシアをはじめ列強の艦船が日本近海に出没しはじめたころから使われはじめ,幕末にいたってその意識がいよいよ高まり,幕府はじめ諸藩は,その領域の海岸線に砲台をつくった。が,すぐに役立たずのものになった。 明治政権は,この幕末の危機意識からうまれた政権だが,維新後しばらくは内乱と政情不安のために,沿岸防備にまでは手がまわらなかった。「せめて東京湾にだけでも,威力ある要塞砲を備えたい」という必要から,それにふさわしい砲をもとめはじめたのは,明治十年の西南戦争のあとほどもないころである。 日本政府は,イタリア陸軍の海岸砲にそのモデルを求めた。二基買い入れた。日露戦争の象徴のようになった二十八サンチ榴弾砲の母型は,これである。すぐさまこれを国産化しようとした。その試作にあたったのは,大阪砲兵工廠であった。 鋳鉄だけはイタリアのグレゴリニー鋳鉄だけを買い入れ,三門完成したのが,明治十七年である。まず大阪府の信太山で射撃テストをし,そのあと東京湾の観音崎砲台にすえつけて各種のテストをおこなったところ,その成績はきわめて良好であった。その結果,明治二十年,海岸砲としての制式砲になった。 日露戦争では米ヶ浜砲台や箱崎高砲台の他にも,各地から二十八サンチ榴弾砲が戦地に送られた。それらの原型となったのが,観音崎砲台に据えつけられていたものだったことから,司馬は出所を簡略化・総称して「観音崎砲台のベトンを割り,砲を解体して旅順へ送った。」と小説に書いたと考えられる。 |
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文藝春秋刊「坂の上の雲」一巻の帯(裏)から転載 |
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「二十八サンチ榴弾砲」とは砲口が28cmの榴弾砲のことだが,何故,二十八センチ榴弾砲と書かないのだろう?私は司馬遼太郎が小説にそう書いていたのでそうしたまでだが,神奈川新聞の記事で,サンチがフランス語であることを知り,司馬がそう書いた理由が判り納得した。 現在,日本における外国語は英米語が主流だが,幕末から明治初期にかけては,フランスとの関係が深く,各分野でその指導を受けていた関係から,当時はフランス語が主流だったのだろう。観音埼灯台,走水の水道施設,横須賀製鉄所等もフランス人技師F.L.ヴェルニーの指導によって建設されたことはご承知の通り。それら施設のレンガ構築物は,当然フランス積みで建造されている。 観音崎砲台跡のレンガ構築物を見ると,明治17年に竣工した第1〜3砲台はフランス積みだが,明治29年に竣工した三軒家砲台,大浦堡塁,腰越堡塁はイギリス積みで建造されている。ところが興味深いことに,二十八サンチ榴弾砲の据えつけられていた第三砲台は,初期に建造された部分がフランス積みなのに, トンネル及びトンネルと砲台の中間左側にある掩蔽壕はイギリス積みで建造されている。イギリス積みで建造されている施設は,おそらく,砲台よりはだいぶ遅れて増設・改修されたものと思われる。 これらのことからも,江戸幕府のフランス重視から,薩摩・長州の新政府がイギリスに接近していった様子が窺われる。やがて明治新政府はドイツをお手本にするようになるが,ドイツ積み(小口積み)で建造された施設は,部分的に採用されているケースはあるものの,ドイツ積みだけで建造された施設は見あたらない。 観音崎及びその周辺地区にはレンガ構築物のページでご紹介しているように,レンガで建造した施設が数多く存在する。それらを訪ねて,レンガの積み方を眺めながら,幕末から明治の時代に思いを馳せて見るのも楽しいものがある。 |
フランス積 |
イギリス積 |
ドイツ積(小口積) |
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観音崎公園の展望圓地に二十八サンチ榴弾砲の実物大模型が出現した。 | |