日露戦争において使用された
二十八サンチ榴弾砲の出所について

2009.7.14
県立観音崎公園
フィールドレンジャー
安 田  直彦
 
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』には日露戦争で観音崎砲台の二十八サンチ榴弾砲が使用されたと記載されている。この史料的裏づけのために文献調査を行った。

 その結果、これまでに調べた文献からは、日露戦争で最初に使われた二十八サンチ榴弾砲は観音崎第三砲台のものではなく、米ヶ浜砲台(横須賀市)門と箱崎高砲台(横須賀市)8門のものと考えられる。日露戦争では二十八サンチ榴弾砲は18門使用されており、追加で送られたものは、第1海堡・元洲砲台のものである可能性が高い。

 しかし、観音崎砲台の榴弾砲4門も兵器本廠へ返納された事になっており、これが日露戦争では使われていないと確証される史料、あるいは日露戦争に送られていないとすると、どうなったかを確証する史料はみつかっていない。
 
(文献に記載されている事項)
 
1.観音崎第三砲台の榴弾砲4門が兵器本廠へ返納されたのは、明治37年11月6日である。(『三浦半島城郭史(下)』45頁)10月24日時点では観音崎に配備されていたという記載がある。(『東京湾要塞歴史』47頁)

 一方、日露戦争において明治37年10月1日には、203高地や旅順の攻撃に使用されており、観音崎第三砲台のものでは、時期的に合わない。
 
2.米ヶ浜砲台6門と箱崎高砲台8門の榴弾砲は37年8月10日に兵器本廠へ返納されていて時期的に合う。これらは戦地追送兵器として返納を命ぜられたとの記載がある。(『三浦半島城郭史(下)』31、32頁。『東京湾要塞歴史』46頁)
 
3.横須賀開国史研究会の山本会長は、米ヶ浜砲台の28サンチ榴弾砲6門が日露戦争の旅順攻撃で使われた、とコメントされていた。また同会発行の『横須賀案内記』121頁にもその旨が明記されている。
 
4.疑問に残る点が一点ある。それは、「米ヶ浜砲台の榴弾砲は常陸丸にて輸送中、敵艦に発見されて、沈没した」と述べている人がいるとの記載があることである。(『三浦半島城郭史(下)』33、34頁)しかし、常陸丸が沈没したのは明治37年6月で、米ヶ浜砲台の榴弾砲が運び出されたのは同年8月であり、この話は間違いと考えられる。
 
5.司馬遼太郎の『坂の上の雲』第5巻231〜232頁には下記の記述がある。「大本営では、東京湾の観音崎砲台のベトンを割り、砲を解体して旅順へ送った。」「この児玉の命令を、関係砲兵と工兵が運営にうつし、おどろくべきことに、旅順の十八門のうち六門が、山でも動くようにして奉天正面の野外戦場に出現したのである。」この記述が正しければ、米ヶ浜砲台と仮に箱崎高砲台のものをたしても、14門で足らない。従って明治37年年11月以降に4門が追加送付されていることになる。
 
6.先に記した様に『三浦半島城郭史(下)』45頁には観音崎第3砲台の28サンチ榴弾砲4門が明治37年11月6日に返納したと記述されている。一方『東京湾要塞歴史』44頁には明治37年11月15日に第1海堡のもの6門、元洲のもの2門が返納されたと記述されている。従って、どちらかのものが追加で送られた可能性が高い。
7.それに対し『神話の海』225頁には米ヶ浜砲台、箱崎高砲台の14門が810日に、次いで第1海堡、元洲砲台の8門が11月15日に追送兵器として返納されたと記述されている。尚『東京湾要塞歴史』44頁の東京湾要塞主要兵器返納一覧表には観音崎第3砲台の榴弾砲が返納されたという記載がない。
 
8.また『世界史の中の日露戦争』134頁に「二十八サンチ榴弾砲は9月に旅順に運び込み、十八門据え付けた。10月から攻撃に使った。」とある。この記述のように、9月の時点で十八門運び込まれていたということであれば、観音崎第3砲台のものは、11月に返納されたと記述されているので、旅順には運ばれていないことになる。
 
9.観音崎第3砲台のものが実際には返納されていないのか?また返納されても日露戦争に送られていないなら、どうされたのか?は現時点では不明である。
以上
 
(参考文献)
『三浦半島城郭史』 赤星直忠著 横須賀市発行
『東京湾要塞歴史』 毛塚五郎編集兼発行人
『神話の海』 毛塚五郎著 神奈川新聞社発行
『横須賀案内記』 横須賀開国史研究会編集 横須賀市発行
『世界史の中の日露戦争』 山田朗著 吉川弘文館発行


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