日露戦争と二十八サンチ榴弾砲考

2009.7.23
県立観音崎公園
フィールドレンジャー
安 田  昭
 

 二十八サンチ榴弾砲は明治37,38年の日露戦争で活躍した我が国の制式海岸砲である。旅順要塞陥落の立役者であった同砲が観音崎砲台から運ばれたものであったかについては様々な議論のあるところだが、以下考証を試みる。

 物事を検証する際、当該関係者による書面、書簡、電文等が何よりも信頼できる。そこで、ここでは防衛省防衛研究所で現在までに公開されている当時の資料と一部の文献をもとに検証してみることとする。

 話を進める前にそもそもなぜ永久砲台として固定されている二十八サンチ榴弾砲が日露戦争で使われることになったかを戦後(日露戦争)陸軍省軍務局砲兵科がまとめた資料をもとに述べてみよう。

 
 
 満州軍の第三軍司令官に乃木大将が任命され、明治37年7月26日から旅順要塞の攻撃が開始された。要塞の正面に向かって塹壕を掘り進み突撃する正攻法で攻撃を仕掛けてもなかなか陥落しないため、時の陸軍大臣寺内正毅は沿岸に備え付けてあった海岸砲を外して旅順に持って行き攻城砲として使ったらどうかと提案した。だが当時の参謀本部の議論は中小口径火砲で砲撃した後に強襲を以ってすれば要塞を陥落できるという意向であった。

 ところが8月21日第一回総攻撃が失敗に終わり、15,860名に及ぶ死傷者を出したのを機に大臣は大本営、攻囲軍に注意を喚起、その結果攻城砲として二十八サンチ榴弾砲の採用が決定した。直ちに実行に着手したのが8月26日。しかしそれ以前の8月10日には既に東京湾ほかの砲台から同砲の撤去命令が出ていた。即ち、箱崎砲台(横須賀市)の8門米ケ浜(横須賀市)の6門、芸予(広島県・大久野島)の4門は「鎮海湾、大連湾、對馬防禦用トシテ撤去ノ処、中途ニシテ旅順攻撃ニ転用セラル」と甲表『三十七、八年戦役間要塞備付大口径海岸砲移動一覧表』にある。

 さて、第三軍の乃木将軍の下で参謀長を務めている伊地知少将は第一回総攻撃が奏功せず、多大の死傷者を出し、砲、弾薬も払底している状況下で大本営に補給を依頼した。返電で大本営の参謀次長、長岡外史は「所要の砲、弾薬等を送るが、攻城用として二十八サンチ榴弾砲4門を送る準備をしている、これに対し意見あれば聞き度」と問うた。

 伊地知の返事を待たずに、大本営は砲床構築の専門家である横田砲兵大尉、二十八サンチ榴弾砲の指揮者筑紫砲兵中佐らの旅順派遣を決め、「第一回の砲6門は仮に不要になっても構わぬから大連に陸揚げしておくようにとの考えで送付準備をした」(「長岡次長日誌」より)

 8月26日「豫テ鎮海湾ニ備附スル為メ箱崎砲台ヨリ卸シタル二十八珊米榴弾砲六門ハ作戦ノ必要上大連湾ニ送付致候就テハ其輸送ノ為メ九月一日頃横須賀ニ運送船回航...」

 9月14日旅順に到着した巨砲6門はかねて準備されていた砲台に9日間で配備され、発射準備を終えた。唯残念なことに同砲は主として敵艦撃破の為との胸算であったが第三軍は陸正面の鉄壁破壊に向けたことである。(『機密日露戦争史』谷壽夫)

 9月22日伊地知参謀より6門追加要請があり、長岡次長は「新ニ送ルベキ二十八サンチ榴弾砲ハ二十九日頃(風波ノ為メ予定ヨリ後レ)横須賀ヨリ発送ス。」大本営と陸軍省協議の末第2回目の送付を通報した。

 更に9月23日遼陽の大山総司令官より「第三軍に二十八サンチ榴弾砲6門増加の必要あり迅速の方法を以て増加派遣され度」との電報が大本営の総参謀長に届いた。引き続きの依頼で急遽、對馬大口湾防禦のため送付したものを転送することとなり、代わりに對馬には笹尾山砲台(下関)の6門が引充てられ、これで旅順に送られた二十八サンチ榴弾砲は総計18門となった。對馬には東京湾の残2門と芸予の4門が既に送付済みとみた。[筆者推測])

 第三軍の「通報」10月6日分には「二十八サンチ榴弾砲六門更ニ当軍ニ追加セラレタリ。併セテ同砲ハ合計十八門トナレリ。」第三軍参謀長 伊地知幸介

  
 

9月30日に3カ所に備えられた榴弾砲は7時間に亘って5カ所の鉄壁に向け射撃され、敵軍を震撼とさせ、又命中度も精確を極め、わが軍の将卒をして舌を巻かしめた。前述の通り砲の運搬・据え付けは第三軍司令部が考えるよりも案外に容易であった。(『機密日露戦争史』)

また港内に向けても発射されたが、当初は盲目撃ちであった為、病院船を誤爆してステッセル将軍から抗議を受けるなどした。砲撃指揮官の筑紫中佐に鋳刀中佐からの面白い電文がある。

 9月24日、第一回送付直後の試射の頃「二十八サンチ榴弾砲現位置ヨリ敵艦ヲ打タントスルハ二階カラ目薬ノ感アリ寧ロ目前ノ敵塁ヲ撃破シ然ル后港内射撃シ前進スルガ得策ナランカ」と。

 

出典:原剛監修「歴史群像 特別編集 日本の要塞」
 
 強力な攻城砲が18門整備されたにも拘らず要塞攻略は遅々として進まず、攻防を繰り返していたが総参謀長の児玉源太郎が動いた。大山総司令官の代理で第三軍に赴き作戦会議を開かせた。

 状況報告を聞いた後、児玉は「命令。24時間以内に重砲陣地転換を完了せよ」「その後、二十八サンチ榴弾砲をもって、一昼夜15分間隔でぶっとおしに203高地に援護射撃を加えよ」

 攻城砲の陣地転換による射撃効果はすぐあらわれてきた。落とした203高地の旅順港が見下ろせる位置に観測所が設けられ、港内のロシア艦隊に砲撃が加えられた。12月5日から9日までの5日間に打ち込まれた砲弾は約1250発、うち命中弾は158発であった。のちに東郷艦隊司令長官はこの成果を「武勇絶倫なる攻囲軍の猛烈不撓の攻撃に因り旅順口の死命を制すべき二百三高地が我が軍の有に帰せしより港内敵艦隊に対し攻城重砲の擲射益々其威力を逞しく...」と称賛した。

 このあと彼我激しい攻防戦の結果、遂に頑強に抵抗していた東鶏冠山砲台を爆破し、31日ステッセル将軍は降伏の書簡を乃木将軍に届け、翌年1月2日開城に合意した。
 
   

 さて、旅順要塞攻撃に使われた二十八サンチ榴弾砲について、司馬遼太郎は『坂の上の雲』『殉死』の諸所で言及している「観音崎砲台の二十八サンチ榴弾砲」は残念ながら旅順には送られていない。

理由の一つとして考えられるのは観音崎第三砲台の任務は「千代ケ崎・浦賀の東方或いは南方方面を射撃し此の方面に於てする敵艦の攻撃若くは碇繋を妨害し併せて観音崎北方の海面を射撃するに在り。」(『東京湾要塞史』毛塚五郎)なので湾内を守る箱崎・米ケ浜の砲が外されているだけに、湾口を守るのには唯一の砲台であったためと思われる。

事実、「7月21日浦汐艦隊は太平洋上にあるものの如く察せらるるが其の所在が不明であったため戦闘配備が令せられた。」 『三浦半島城郭史』(赤星直忠)の37,38年戦役の付表『警急配備使用火砲及堡塁砲台の配備』(十月二十四日)にも観音崎第三砲台の二十八サンチ榴弾砲は『配備』としてあるし、前述のように旅順では10月6日にはすでに合計18門に達していたというから、その後に送られることは考えられない。


 司馬は『坂の上の雲』(旅順)の中で「この大要塞の攻撃についての日本側の態度を、筆者は時間の経過をときに前後させたり、ときに同じ内容を別の側からくりかえしのべたりして、執拗に書いている。同時にその執拗さをはずかしくおもっている。」と書いている。

 最後に、「日露戦争に投入された要塞主砲(二十八サンチ榴弾砲)」(『東京湾要塞司令部極秘史料』第二巻)を見ると、旅順で使われた18門、及びその後11月6日以降に返却命令の出た東京湾、芸予、下関要塞の砲は観音崎第三砲台の4門を含めて澎湖島、大連湾、鎮海湾の何れかに送られた。(注:芸予は瀬戸内海の小島群、澎湖島は台湾の西方の島嶼の一つ)

 以上、冒頭から結論が出ていたのに長々と記述したが、観音崎を間近かにする我々にとってみればロマンをこめて「この第三砲台に据え付けてあった二十八サンチ榴弾砲が日露戦争で活躍したのです」と案内したいところだが、これに対して歴史は厳然と立ちはだかる。


 今秋から始まるNHKドラマは3年間にわたって13回放送される。二十八サンチ榴弾砲、聯合艦隊の旗艦「三笠」が登場するのは再来年の第10回以降「旅順総攻撃」「二〇三高地」「敵艦見ユ」「日本海海戦」である。放送ではドラマの途次に観音崎や三笠公園の現在の姿を紹介することもあろう。その中で、観音崎の第三砲台がどう扱われるのか興味のあるところだ。おそらく、ドラマでは司馬遼太郎に敬意を表して東京湾砲台群を総称して、観音崎砲台と呼ぶであろう。

 『機密日露戦史』に興味深い記述がある。長岡外史の口述として「時日は確と記憶しないが八月下旬陸軍省に行くと有坂君が居合わせ『オイ長岡君、今の砲ではとても旅順は落ちない。二十八サンチ榴弾砲をやろうではないか』学理と一々の説明に感服し、よし然らば送ることに尽力するが内地海岸の防備はこれがために薄弱になるがそれはどうする、との私の反問に対し、『いや今日の場合に於いて観音崎、由良要塞(和歌山県)より下ろすも差しつかえはない』火砲の専門家有坂少将の言に私は大賛成、早速参謀総長に申し出ると、陸軍大臣に相談し給えということだった。」司馬が自著で「観音崎砲台」と呼ぶようになったのはこれを見てのことであった可能性は十分に考えられる。

―以上―
 
(参考資料)
  
1.日露戦争
 1904年〜1905年(明治37年〜38年)日本とロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争。1904年2月国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、1905年3月の奉天大会戦、同年5月の日本海海戦などで日本の勝利を経て同年9月アメリカ大統領T.ルーズベルトの斡旋によりポーツマスにおいて講和条約成立。(広辞苑)
 
2.旅順
 中国遼東半島の南西端に位置し、日清戦争及び日露戦争に日本軍が攻落し租借した。日露戦争当時,ロシア関東軍司令官ステッセル将軍の守る堅固な要塞があった。
 
3.日露戦争当時の主要閣僚及び指揮官
総理大臣 桂 太郎 外務大臣 小村寿太郎
陸軍大臣 寺内正毅 参謀総長 山県有朋
参謀次長 長岡外史 聯合合艦隊司令長官 東郷平八郎
満州軍総司令官 大山 巌 総参謀長 児玉源太郎
第三軍司令官 乃木 希典 第三軍参謀長 伊地知幸介
(余談)
 

 第三砲台は公園内「海の見晴らし台」の手前にあって,現在は第一砲座のみが残っており、楕円形の砲座に各2門の榴弾砲が据付けられていた。砲台自体は明治17年に竣工しているが、明治27年9月に旧第三砲台が廃止されたのに伴い同砲台の二十八珊米榴弾砲が据え付けられた。明治23年4月に行われた旧第三砲台の射撃実施報告の記録が残っている。

 『観音崎第三砲台ニ於テ二十八珊榴弾砲射撃実視報告』というもので、標的には平根崎(今の千代ケ崎)に船の甲板を模して造られた横6m縦18mの鉄板を用いた。標的までの距離は3330m、射角約54度で18発撃ち、距離遠近、左右偏差をそれぞれ計測したが、命中は1発もなく一番精度の高かったのは最後のほうの16発目で、距離+13m、右1.1mであった。

 「二十八サンチ榴弾砲は明治16年イタリアの同砲に準拠してグレゴリニー鋳鉄を用い、大阪砲兵工廠で試作された。第1号砲は同17年竣工し、信太山に於いて試験射撃を行った。19年7月には東京湾観音崎第三砲台に据付け、20年3月下旬命中精度および使用の便否を試験したところ、所要の目的を達成することができた。以降火砲本体の研究改良が重ねられ、明治25年には海岸砲として制式に制定された。」(『日本の大砲』佐山二郎、竹内昭共著)


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