私の歳時記
(観音崎だより)
俳句・情景 村岡茂夫
写真・編集 kamosuzu
は じ め に
 
日本の自然は美しい。季節ごとに大きく変化する。春になれば山は笑い、夏になれば山は招く。秋になれば山は装い、冬になれば山は眠る。自然にはいろいろな顔がある。ある時はやさしく、ある時は厳しい。山野を歩く度に新しい発見があり、その美しさ・素晴らしさに人は感動する。

 
この自然との触れ合いの中で私達が感じたことを,「俳句・写真・情景文」でお伝えし、大方の共感を得たい。これが「私の歳時記」を始めた動機である。

俳句・写真・情景文。それぞれ異なる表現形式。言わば、この三種類の楽器で自然賛美の曲を奏でたい。時に競い、時に和し、豊かなハーモニーが醸し出せれば幸いである。あせらず、ゆっくり、着実に、二人三脚で進めたい。

 先ずは「春」から始め、季節に合わせ、観音崎から発信したい。当面は叙景句を中心とし、順次範囲を拡大して行きたい。
2005年4月


目  次
新年の句
春 の 句
夏 の 句
秋 の 句
冬 の 句





私の歳時記
<新年の句>


連れ立ちて横一列に初詣
普通,歩道では大勢が並んで歩けない。しかし,神社の参道は広くしかも概ね一方通行になっているので,横に広がって歩いても,人に迷惑をかけることはない。今日は家族総出の初詣。大手を振って横一列で歩く。


幼な子のかるた絵で取る速さかな
子供用のかるた。絵札には大抵読み札の最初の文字が一つ平仮名で書かれている。まだ字の読めない幼児。繰り返し遊んでいるため,絵を良く覚えていて,字が読めなくても,かるたを取るスピードは結構速い。


凧揚がる手繰り放ちてまた手繰る
風を受けて凧は揚がる。風がなければ勿論凧は揚がらない。また,風が弱いと揚げるのに苦労する。今日は風が弱い。少し離れたところで凧を持って貰って糸を手繰る。少し揚がると糸を放して伸ばす,凧が低く落ちそうになるとまた手繰る。そんなことを繰り返しながら凧は揚がって行く。


買初や紙幣の肖像微笑まず
一万円札は福沢諭吉。五千円札は樋口一葉。千円札は野口英世。お札の肖像はいづれも余所行きの顔ばかりで笑顔はない。買い物は楽しいが,どんどん出て行く札束に喜んでばかりはいられない。そんな気持ちを代弁するかのように,お札の肖像は微笑まない。


初茜雲間を黒き鳥の群
元日の朝,東の空が次第に明るくなり,赤く染まって来た。日の出直前の美しい景色である。さわやかですがすがしい。空には雲が漂い,その雲間を鳥が飛んでいる。海鵜であろうか,その黒い姿が印象的である。


交代のなくて羽子つきすぐ飽きる
プレイヤーが多くて交代が多いと、待つのが嫌で早くやりたくなる。反対に二人きりで交代がないと、すぐに飽きてしまう。人が少なくても駄目。多過ぎても駄目。人間の微妙な心理である。


近況の代りの一句年賀状
年に一回の無事を知らせる年賀状。これに近況が入れば申し分ない。しかし,短く書くのは難しい。代りに趣味を生かして俳句を一つ入れる。上手下手は問題外。体調も含めて近況やら心境などが伝われば幸いである。


それぞれの趣味を生かせし賀状かな
世は正に高齢者時代。老人を中心とした人々の趣味は深く豊かである。私のいただく賀状も趣味を生かしたものが年々増えている。版画・写真・書・短歌・俳句・船の模型等々多彩である。言わばその人の顔のある年賀状。楽しみが一つ増えたような気がしている。


初泣きや我慢することまだ知らず
子供は泣きたくなれば泣き,笑いたくなれば笑う。喜怒哀楽が激しい。気の赴くままの全くの自然体である。大人になるとそうは行かない。我慢しなければならない。大人になるとは我慢を知ることとも言える。普段は叱る親も今日は元日とて嫌な顔をしない。


初富士やつきて離れぬ雲一つ
富士山に雲がかかっていてなかなか離れない。雪で真っ白な富士山。白い雲。ともに青空にくっきりと見える。穏やかな元日の景色である。


初富士や落暉に染まる西の空
富士山は雪に覆われて真っ白な美しい姿を,元日丸一日青空に浮かべていた。夕刻が迫り,沈む太陽に西空は真っ赤に染まっている。美しい夕焼けは明日の好天を約束している。


七草をみなまで言えず粥すする
春の七草。全部言える人は少ない。かく言う私もその一人。七草粥をすすりながら言おうとしたが,全部は言えなかった。


歌かるた親子二代の得意札
歌かるた。百人一首。この札だけは必ず取りたいという札,所謂得意札を大抵の人は持っていた。また,お互いの得意札を狙って取りに行くことも稀ではなかった。軽い嫌がらせと面白半分に,子供は親の得意札を取りに行く。何時の間にか,親の得意札は子供の得意札となっていた。


高きより初日の光黄金雲
暫く続いた薄明も終わり,初日が東の空に見えて来た。光りは先ず上空を照らす。つまり,夜明けは空から始まるのである。上空にある雲が太陽光線に照らされて黄金色に輝いている。今年最初の夜明け。目出たさに黄金色が加わり,美しく且つ心改まる日の出である。初日を尊重するのは日本だけでない世界共通の習慣と言う。


初日待つ大群衆の中にをり
元日の夜明け前の暗闇の中を,大勢の人が海岸に集まっている。初日の出を見るための人出である。かく言う私もその中の一人。好奇心は人後に落ちない。錯覚とは言え,初日は大きく見える。清新,厳粛な日の出である。見るというよりも拝むのである。


年迎ふ汽笛に海の遠からず
海の見えない山側に住んでいると,ふだんはあまり海を意識しない。しかし,年改まり新年を告げる汽笛を耳にすると,海の近さを実感する。また,汽笛は何故かもののあわれを感じさせ,人を感傷の世界へ誘い込む。


初明り仰ぐ鵜の群V字列
一月一日の朝,曙の光がさす。次第に明るくなる空を仰ぐ。鵜の一群が見える。隊列はV字型である。因みにこの隊形で飛ぶと,翼の出す気流により,後続の鳥の消費エネルギーが少なくなると言う。合理的且つ美しい隊形である。


ゆらゆらと海を真直ぐ初日影
海と太陽。初日の出。何処から見ても,太陽の光は遙か海を越えて,真っ直ぐに眼に入る。今日は少し波がある。海を光りながら届く初日も揺れている。


灯台も崖も芒も初日かな
断崖の上に灯台。海辺に枯芒。初日が当たって,それぞれが持っている色を明るく強調している。灯台はほんのりと紅をさしながらも白。断崖と芒は茶色。最も強烈なのは枯芒。正しく茶色の光,茶色の輝きである。


青空に溶けず二筋凧の糸
雲一つない冬の青空。日本の素晴らしい冬の景観・特徴である。今日は,風もあり絶好の凧揚げ日和である。凧が二つ揚がっている。凧の糸が二筋大空を過っている。細い凧の糸はくっきりとして,青空に溶け込むこともない。間然するところのない堂々たる存在感,無言の自己主張である。


輪飾りや高階に住む老夫婦
マンションに住んで,はや六年。夫婦二人きりの暮らしである。大きな門松とは全く縁がない。廊下に面した出入り口のドアーに小さな輪飾(わかざり)をつけて新年を祝う。老夫婦のささやかなお正月である。


半世紀会はず賀状の続きをり
年賀状だけの付き合いも結構多い。しょっちゅうあっている人が多い反面。なかなか会えない人もいる。そんな人には,年賀状に「今年こそ会いたい」などと繰り返し書いている。


消えぬほどどんどほそぼそ続きをり
どんど。左義長(さぎちょう)。普通,正月十四日の夜または十五日の朝に行われる火祭りの行事。門松,正月の飾りなどを一ヶ所に集めて焼き,家内安全・無病息災を願う。鴨居では,「どんど」は「さいと」とも呼ばれ,八幡神社前の浜で,正月十五日の朝八時から行われている。


海光る幅おのづから初日の出
海岸から初日の出を眺める。太陽が房総半島の山の上から真っすぐに輝いて見える。海岸を歩いて移動しても、海に輝く太陽の光の幅は一定で変らない。元旦の太陽との出会いから今年も始まる。


節白き竹すこやかに初日の出
竹は粉を吹き,節が白くなっている。元気のよい証拠である。私の髪の毛も白くなってきたが,竹にあやかり,今しばらくは元気でいたいものである。


願ひごとあるにもあらず初詣
毎年欠かさず初詣。大抵は近くの氏神様。たまには足を伸ばして遠くまで行き、破魔矢をいただいて帰る。全くの惰性であるが、初詣をするとすがすがしい気分になるから不思議である。


人波の我もその中初詣
人込みを気にすると外出はできない。特に,季節に関する行事・風物目当ての外出には混雑がつきものである。皆の関心はほぼ同時に一点に集中する。かく言う自分も例外ではない。文句は言えない。


したきことなかなか減らず屠蘇をつぐ
あれもしたい。これもしたい。出来るのは身体の動くうちである。欲張り過ぎると身がもたない。何か減らしたいと思うがなかなか出来ない。老いの焦りか。しかし、意欲が残っていることをよしとして、屠蘇(とそ)で祝杯と行こう。


念入りに置くや歌留多の得意札
「自分が取りやすく、人が取り難く」するのが歌留多(かるた)の並べ方の基本。下句を基準に並べるのは初心者。上句を基準に並べれば相当の腕前。上手な人にはすべてが得意札。得意札があるのは未熟な証拠である。好きな札を何が何でも取りたいという人もいる。


歌かるたみな諳んじて意味知らず
子どもの頃に諳(そら)んじて憶えた歌は自然に口から出る。子どもの記憶力は素晴らしい。しかし、意味はと言うと、全く分っていない。よく知っている百人一首の歌を全然理解していなかったことに、大人になってようやく気づく。


書初の紙いっぱいの子の字かな
子供は小さい字を書くのが苦手である。しかし、書初(かきぞめ)は少ない文字を大きく書くので子供向きである。形ばかりを気にする大人より、字に勢いがあって子供の方がはるかに上手い。





私の歳時記
<春の句>


崩れては浜を縁取る春の波
冬の厳しさが消えて,春の海は光に満ちている。海岸線は文字通り湾曲している。直線ではなく,曲線の世界である。春の波が寄せては崩れ,浜を白く縁取っている。穏やかな春の海辺である。


軒下の汚れて見上ぐ燕の巣
燕は春日本に渡って来ると毎年同じ家の軒下などに巣を作る。主な材料は土で,藁や枯れ草などを混ぜて補強されている。軒下が汚れている。見上げると案の定燕の番。うれしい心のときめく一瞬である。


春潮や漁港の狭き出入り口
漁獲物の水揚げ販売,漁業に必要な物資の供給等々。規模にもよるが漁港の果たす役割は大きい。しかし,その最たるものは船の安全確保であろう。そのためか漁港は防波堤に囲まれ出入り口は狭い。満潮の春の海は暖かく静かで青い。


一対となりし鴨より引きにけり
冬を,日本で過ごした鴨は春になると,北の繁殖地へ帰って行く。群れをなして,一群,一群と引いてい行く。 行く先が繁殖地のためか,長旅を乗り切るためか,伴侶の出来た鴨から順次帰って行く。


野の花はなべて小さしいぬふぐり
人の手の入らない野生植物の花は概して小さい。しかし,小さくても純朴な美しさがある。野生種ならではの独特の味わいであり魅力である。青い小さな花がいっぱい咲いている。春の到来を告げるいぬふぐりである。


春潮や海路ははやし千葉三浦
三浦半島と房総半島。最短10km以下。海路は近い。舟で行けばすぐに着く。陸路を大回りするよりずっと早い。春の海は暖かい澄んだ藍色をしている。潮の流れも速い。


座してすぐ春眠さそふバスの揺れ
暖かくてのどかな春。何時でも何処にいても人は眠りに誘われる。特にバスに乗って座ればすぐに眠ってしまう。バスの揺れが一層の眠気を誘うのである。長距離バスは兎も角,寝過ごしに注意が肝要である。


満開の躑躅フェンスの網抜けて
晩春から初夏にかけて,躑躅(つつじ)の花が街中を彩る。多様な色どりが目覚めるように美しい。いよいよ寒さとの決別。暖かい季節の到来である。躑躅は一つ一つの花よりも,集団としての花が見どころ。フェンス間際に植えられた躑躅。今や満開の花が網の目を抜け出て咲いている。


風光る巣箱の小さき出入り口
巣箱の出入り口は小さい。こんなに小さくて大丈夫かと思うが鳥は不自由なく出入りしている。羽毛で膨れて鳥は大きく見えるが、実際は細身である。また羽毛も滑りやすく出入りに好都合である。日ざしも徐々に強まり木々を渡る風も少しまばゆい春の昼下がりである。


親鳥の巣戻りせしか雛の声
雛の声が一段と大きくなった。親鳥が巣に戻ったらしい。餌をねだる雛の声である。餌運びは雛の巣立ちまで、毎日何回も何回も繰り返される。親鳥の愛情には頭が下がる。かくして雛は育ち、命は子々孫々に繋がる。


薄霞一筋沖の光りをり
海を眺めるのは楽しい。思わず長時間見てしまう。海にはうっすらと霞がかり、沖が横一線に光って見える。ぼんやりとした中のきらりとした一筋の光。春の穏やかな美しい海の景色である。


触れ合うて花の咲き満つ躑躅かな
満開の躑躅。紅白の花が押し競饅頭(おしくらまんじゅう)。押し合いへし合い咲いている。目覚めるような色彩と花数が素晴らしい。しかし,躑躅の仲間には有毒なものが多い。因みに,漢名は躑躅(てきちょく)(行っては止り行っては止ること。足踏みすることの意)。ツツジにこの字が使われるのは,家畜が誤って食べて躑躅して死んだからだと言う。


穏やかに潮目縞なす春の海
穏やかな春の海。風もなく波もない。いく筋もの潮目が見える。春ののどかな海の風景である。しかし,海面が静かでも,潮目があることは海に複数の潮流,或いは海水に温度差がある証拠。海は絶えず変化しているのである。


先づ一羽すぐ二羽三羽初つばめ
燕の飛来する時期は地域により異なる。南九州では二月下旬,関東では三月下旬,北海道では四月下旬と言う。初燕その年に見る最初の燕は季節の到来を告げる。しかし,不思議なことに,一羽見れば続いてすぐ二羽三羽と燕がすでに沢山来ていることに気がつく。


親雀わざと目立ちて見せにけり
親の子を思う気持ちは雀も同じである。幼鳥には親の保護が必要である。特に巣立ち直後の幼鳥に対する親の気遣いは強烈である。かと言って自分が強いわけでもない。天敵の目を逸らすために親雀は自分を目立たせた。


天心は快晴霞む沖の空
見上げる真上の空は真っ青。しかし,遠い沖の空には雲がかかり霞んで見える。春の穏やかな海岸風景である。


囀や目覚めて床をなほ出でず
春眠。春の朝は眠い。目覚めてはいるが,なお夢見心地である。鳥の囀(さえず)りが聞こえて来る。目覚めは徐々に確かになって来ているが,床を出る気にはならない。


虻光る花に潜りてまた出でて
日だまり。ふと見ると虻(あぶ)が花を出たり入ったりしている。虻の羽根は日光を浴びて光っている。春の暖かい午後である。


春兆す木は枝先に草は根に
早春。まだ名のみの春。寒さも厳しい。しかし,仰ぎ見る大木の梢には木の芽が膨らんでいる。一方,草の根はすでに緑を兆し春の生気が感じられる。春の息吹も多様である。


白浜や花の濃淡浜大根
観音崎の砂浜は概ね白色。浜大根の群落が目立つ。春になると。花が一斉に開く。観音崎特有の美しい海岸風景である。よく見ると,花には濃淡があり,必ずしも色は一定していない。


なほ揚がりたき凧らしき糸の張り
凧が揚がっている。風もあり途中で垂れることもなく,糸は強く張っている。糸を伸ばせば更に上に上がる筈である。つまり,糸の張りは凧が上に揚がるためのエネルギーの象徴と言えよう


羊歯萌ゆる崩れしままの横穴墓
観音崎の山腹には横穴墓(おうけつぼ)が十七ある。どれもみな古代人の墳墓である。風化が進んで,昔日の面影は殆ど見られない。特に,入口部分の崖崩れが目立つ。しかし,春には羊歯(しだ)が萌え出て,荒れ果てた横穴墓にも緑がよみがえる。


花冷えと言ひつつ重ねコップ酒
桜の咲く頃は春とは言え,まだ寒さが残っている。所謂花冷え。特に,夕方から夜にかけてのお花見は冷える。暖をとるためにコップ酒。「花冷え」「花冷え」と言い且つ頷きながら杯を重ねる。


絮つけて蒲公英丈を伸ばしけり
花が咲いている間は身を低くして,風や寒さに耐えていた蒲公英(たんぽぽ)。花が終わり,絮(わた)をつけると,急に背丈を伸ばす。風を利用して,種子を遠くに飛ばす蒲公英の知恵である。


名を知れば目につく花よ春の径
名前を覚えるとはどう言うことであろうか。それは相手を尊重尊敬している証し・・・などと春の山野を歩きながら自問自答する。一つの花の名前を覚えると,暫くの間,その花が気になりその花ばかりが目につく。


ことごとく映えて日のある春の波
春の海は静かでさざ波が立っている。波に反射する日光がまばゆい。無数の波。そのすべてに一つづつ太陽が映っている。明るい美しいのどかな春の海である。


向き変えて船の光れり春の海
太陽の反射光線は向きにより驚くほど遠くまで届く。沖を行く船も方向転換したらしい。俄に船が光る。長閑な春の海の一瞬の変化である。


刈られたる形さまざま躑躅咲く
躑躅(つつじ)は,円く,四角く,細長く,色々な形に刈られている。そして,その形に合わせて咲いている。あふれるばかりの沢山の花。躑躅の花の多さには何時も感心する。


白波を立てて満ちをり春の潮
東京湾。普通,観音崎と富津を結ぶ線の内側を言う。両者間の距離は六〜七キロメートル。意外と狭い。湾口の水深は千メートル。湾内に入ると,直ちに浅くなり,数十メートルとなる。干満の流れは速い。


春怒涛見下す己揺ゆるるごと
春の怒涛。上から覗き込むようにして見る。波の上下に伴い,ある時は吸い込まれるように。また,ある時は押し上げられるように感じる。揺れているのは海なのに,あたかも,自分が揺れているようである。


囀や一禽高き木の上に
自分を目立たせるためか,声を遠くに届かせるためか,高い木の天辺で小鳥が一羽囀っている。呼べど応えず,いくら呼んでも近づく鳥はいない。何時果てるともなく囀りは続いている。


草萌や墓の後ろに竹箒
墓を掃除するためであろう。墓の後ろに竹箒が置いてある。ふと,垣間見た舞台裏。すでに春。草萌えが始まっている。


放たれしごと子の走る春野かな
普段,狭いところに閉じ込められている子供。暖かい広い春の野原に出ると喜んで走り回り,身体全体で開放感を表している。


春潮の引きて現る双子岩
春の海は干満の差が大きい。いつも海に没して見えない双子岩が干潮の今日は姿を現している。春なればこその光景であろうか。


陽炎やゆっくり止まる終着駅
電車は終点に止まる時は慎重である。早さが売り物の京浜急行では特に感じる。終点の浦賀駅に近づくと電車はスピードを落してなかなか止まらない。


陽炎となりて電車の消えにけり
前句が到着。来る電車。この句は去りゆく電車である。陽炎の中。現実か錯覚か。何か言うと味を損ねる。これ以上言わない方がよさそうだ。


崩れつつしぶく白波春嵐
海には不思議な魅力かある。変化が大きい時。変化が少ない時。季節により天候により激変する。主役は海の色と波。また、そのスケールの大きさであろう。長時間見ても飽きることはない。


老木と言はれて久し梅の花
苔がついたり,虚(うろ)があったりして,梅は見るからに老木という感じの木が多い。しかし,老木と言われても立派に花を咲かせている。「生きているとは花を咲かせることである」とでも言いたげである。


灯台の残骸いまだ春怒涛
観音崎灯台。初代は明治2年1月1日点灯の日本最古の洋式灯台。現存するものは大正14年6月1日完成の三代目。二代目は大正12年3月15日完成。僅か五ヶ月半後の関東大震災で倒壊した。八十年以上たった現在,なお,その残骸を観音崎の海に曝(さら)している。


抜きん出て大根白し春の畑
三浦半島には台地が多い。坂道を上がって行くと,急に景色が開け台地に出る。台地は意外と広い。台地には大根畑が目立つ。現在は,三浦大根が減って,殆どが青首大根と言う。早春の柔らかい日差しの中で,大根は土から大きく抜け出て,一様に白い根をさらしている。大根の元気のよさを感じる情景である。


石段は歩幅に合はず梅の寺
歩幅に合わない石段は歩き難い。しかし,昔,出来たためか,お寺の石段は歩幅にあったものが殆どない。匂いにつられ,立ち止まって,ふと見ると梅が見事に咲いている。


みちばたの土やはらかく山菫
人が道を作り、人が歩き、道は踏み固められる。山道はその典型。人に踏まれると、植物は育たない。人に踏まれない山の道端は土もやわらかく、菫(すみれ)が可憐な花を咲かせている。


春潮や沖行く船の絶え間なく
浦賀水道を通る船は一日約千隻。三浦半島と房総半島の距離は十粁足らず。海が狭いので船がよく見える。出船入船。客船・貨物船・タンカー・漁船・軍艦等々。種類も様々。大小様々。


敷石の間踏まれず春の草
草は踏まれるのに弱い。敷石と敷石の間には隙間があり、人に踏まれない。間隙を縫っての草萌。春だ。


倒木もやがては土に花すみれ
木が倒れてからかなり長い年月が経っているのであろう。木は原型を僅かにとどめ、土になりかかっている。そこに菫がうす紫色の花を咲かせている。


子雀のただ鳴くばかり木を去らず
子雀が木の上で鳴いている。まだ飛ぶ自信がないのであろう。ただ鳴くだけで一向に飛び立たない。


水槽の稚魚の大き眼水温む
動物の子供には身体の割りに大きなものがある。人間で言えば頭が大きい。魚の場合は、眼がやたらに大きく感じられる。


花きぶし伝ひて落つる雨雫
きぶし(五倍子)。観音崎で見られるのはエノシマキブシ。普通のキブシより花序が長く花も大きい。早春から咲くこの花は春の到来を告げる。花を伝い落ちる春雨には何んとも言えない風情がある。


浮き出でし藻に波消えて春の海
海は荒れていると言うほどでもないが、波が少し出ている。しかし、藻が浮き出たところには波がない。藻には消波作用があるようだ。


砂浜の潮の香強し干し昆布
砂浜に近づくと、潮の香が鼻を突く。何時もより強い。浜に昆布が干してあるためであろう。潮の匂いは、海藻の匂いとも言える。4月早々,観音崎の浜では昆布干しが始まる。


岩の間を流れて引きて春の潮
東京湾に残された岩礁海岸は少ない。そのうちの一つ、観音崎の岩礁海岸はその景観を誇っている。春潮は狭い岩礁の間に流れ込んでは、引いている。かすかな音を立てながら。のどかな春の海岸。


春霞空に浮くごと沖の船
沖に船が停泊している。荷物をおろした後なのであろう。喫水が浅く、船腹の高さが目立つ。船は霞のかった空に浮いているように見える。





私の歳時記
<夏の句>


色変へず白を通すか額の花
額紫陽花。紫陽花の原種で三浦半島に自生している。今咲いているのは真っ白な額紫陽花。色が変わるのが得意の紫陽花だが、色を変えずにこのまま白で押し通す積りなのであろうか。額紫陽花に聞いて見たい。


あじさゐの色変へ易き白ならん
紫陽花の一番の特色は花の色が変わることであろう。そのため「七変化(しちへんげ)」の別名もある紫陽花の真っ白な花が咲いている。何故か白色。白がどの色にも変わり易い色だからなのであろうか。


夏来たる藻場に漂ふ稚魚の群れ
浅い海底には海草や海藻が群生している。所謂藻場・海中林である。観音崎の海でも最近復活して来たのは嬉しい。藻場はプランクトンが豊富でしかも身を隠すにも便利なため,稚魚たちの絶好の生育場所である。稚魚たちが藻場を泳いでいる。初夏を楽しんでいる姿が印象的である。


母そっと金魚すくひの子に手添へ
金魚すくい。まだひとりでは出来ない幼子。お母さんが後ろからそっと手を添える。二人がかりの金魚すくいである。母親の愛情。それを素直に受け入れる子供。すべてが当然のこととして極く自然に行われている点が素晴らしい。ほほえましい夏の風物詩である。


山路より灯台見えず夏木立
灯台は沿岸を航行する船舶の安全確保を目的として作られている。そのため海からはよく見えるが,陸からは見えないことが多い。特に夏には,木々が茂っているため,山からは全く見えない。


膨らんで蕾色づく花菖蒲
最初蕾は小さくてかたい表皮で覆われている。まだ,どんな色の花が咲くか分からない。やがて蕾は大きくなり,膨らんで色づく。この頃になると,花の色が想像出来る。開花が待ち遠しい。


己が影作りて茂る夏の草
草は乾燥に弱い。水がなくなればたちどころに枯れてしまう。当然のことながら、草は水を土から吸収する。夏の強い直射日光に当たれば、土はすぐからからに乾いてしまう。しかし、夏草は自分の影を作ることによって、土から水の蒸発を防ぎ、繁茂している。


打水や石すぐ濡れてすぐ乾く
庭に打水をする。土は先ず水を吸い込む。濡れた状態になるのはその後で、土が濡れるまでには時間がかかる。しかし、石は水を吸わずにすぐ濡れる。その上、夏の日ざしを受けて、温まっている石は乾くのも早い。


昃れば花すぐ閉じて二輪草
さっきまで当たっていた日ざしがなり、昃(ひかげ)になった途端に二輪草が花を閉じた。日光が好きな二輪草。日光に敏感に反応する二輪草。そんな二輪草を見つけたような気がした。


色褪せて梔子の花なほ匂ふ
梔子の花は匂いが強い。花が咲いている時は勿論のこと、白色の花が褪せて茶色っぽくなっても匂いはなくならない。相変らずの芳香は梔子の素晴らしい特徴である。


石段の中ほど減りて夏落葉
神社の石段。中央が磨り減って窪んでいる。人がよく通るためであろう。鬱蒼とした大木の覆う石段は日ざしが届かず、夏でも涼しい。石段には常緑樹の厚い落葉がたまっている。


翡翠の翔たねば我も立ち去らず
翡翠(かわせみ)が水辺にいる。じっとしてなかなか動かない。私が動けば翡翠が飛び立つような気がする。久しぶりの翡翠との出会い。少しでも長く見ようとして私も立ち去ることも出来ない。しばらくは翡翠との我慢比べである。


波洗ふ砂浜固き跣足かな
砂浜には波が静かに寄せては引いている。砂浜を跣足(はだし)で歩く。波に洗われて砂は固くなっている。跣足であることもあり,砂が濡れて固くなっているのがよく分かる。


夏雲や果てし海向く船員碑
観音崎の山の上から白い石碑が遥か南の海を見下ろしている。太平洋戦争で亡くなった船員6万人の方々の慰霊碑である。時あたかも夏。戦没された南国を思わせるような白い雲が空に浮かんでいる。「御霊よ!安らかに!」と祈る一瞬である。


青嵐万緑揺れて山動く
観音崎の山は照葉樹林に覆われて今や緑濃い夏の真っ只中にある。木々を揺らして,強い風が吹きすさぶ。万緑が揺らぎ,山が動いているように見える。


羊歯若葉風洞となる切り通し
観音崎には切り通しが多い。山を切り開いて作られた切り通しは風の通り道となる。そこには羊歯が群生して,青々とした美しい羽状の葉を広げている。


岩礁や鵜はそれぞれの海を向く
岩礁には鵜の一群がいる。塒(ねぐら)と岩礁の往復の移動と岩上での休息は群としての集団行動をしている。しかし,捕食のために海に入る時は単独行動に切り替わる。そのためか,岩礁にいる鵜の向きはそれぞれ異なり,別々の海を見つめている。


一羽づつ翔つ鵜戻る鵜巌の上
鵜は海に潜っては上手に魚を捕食する。一羽ずつ飛び翔(た)って,海に入っては戻ってくる。全くの単独行動であるが,戻ってくるのは群の中。して見ると,この単独行動も集団行動のバリエイションの一つなのかも知れない。


金魚玉覗くいびつな顔ひとつ

金魚玉を覗いている顔が一つ金魚玉にうつっている。丸い金魚玉が,凸面鏡になって顔全体がゆがんで見える。顔を近づけたり離したりする度に,鼻が大きくなったり小さくなったり。普通鏡で見る顔とは全く違う。


蝉しぐれ山へと続く奥の院
寺は山の麓に建てられている。奥の院ともなるとかなり高いところにある。柵があるわけでもなく,境内は次第に山になって行く。山との境界はわからない。


むしるより伸びる速さよ草むしり
春先には草の伸びよりもむしる方が速かったが,今や夏。むしっても,むしっても,草の伸びる速さには追いつかない。夏の草の勢いは凄まじい。


とどまれば蜥蜴とどまる石畳
石畳の上での出会い。隠れ場所も逃げ場所もない。お互いに相手の出方を待つ。自分が止まれば蜥蜴(とかげ)も止まる。次の動作に入りがたい一瞬である。


菖蒲池水面にゆらぐ花の影
花菖蒲。日本の代表的な園芸植物である。花作りは江戸時代の初期から始められたと言う。育成した土地の名を冠して,「江戸系」「肥後系」「伊勢系」に大別され,現在500種に及ぶと言う。正しく花の芸術品である。菖蒲池の水面に映った花菖蒲の美しい花がゆらいでいる。


荒れ果てて藪蚊の唸る横穴墓
横穴墓。観音崎の山腹に十七穴あることが知られている。古代人の墳墓。家族が何代かに亘って使った庶民の墓である。墓の多くは海を見晴らせる山の南面の一等地にある。祖先を敬う気持ちが感じられ心を打たれる。しかし,現在は風化が進んで昔日の面影はない。夏には藪蚊が目立つ。


夕闇やなほ衰えぬ蝉しぐれ
春蝉秋蝉もあるが,ここでは夏蝉。蝉の鳴き声に季節の移ろいを感じる。山では沢山の蝉がしきりに鳴いている。所謂蝉しぐれ。短い命・短い青春を謳歌している。夕方薄暗くなっても鳴き止まない。


梔子の花褪せ易き白さかな
梔子(くちなし)は常緑の低木である。夏になると枝先に花をつける。花は比較的大きく直径5〜8センチメートルほどである。最初は白,次第に黄色くなり,褐色になって果てる。白は褪せ易い。白さを保つのは容易ではない。


洞涼し次第に見ゆる闇の奥
洞窟の中はしばらくは何も見えない。目が暗さに慣れて見えるようになるには若干の時間が必要である。反対にひんやりとした涼しさは入ればすぐに感じる。


稜線を超えてなだるる夏の霧
山は気象を二分する。山には空気の流れを止める役割がある。しかし,時には山を超える風の道,霧の道も出来る。稜線を超えて霧が反対側になだれ込んでいる。標高数十メートルしかない観音崎の山でも,時折,このような現象・光景が見られる。


花とべら鳥ゐるらしき枝の揺れ
トベラ。常緑の低木。観音崎に多い。夏になると香りのよい白い花を咲かせる。花の蜜は鳥の大好物。花が咲くと鳥が集まる。目白であろうか,葉隠れに鳥が来ているらしい。姿は見えないが,枝が揺れている。


一つづつ種を咥えて蟻の列

(C)栗林 慧(栗林自然科学写真研究所)
蟻に託して種子散布する植物は意外と多い。スミレ・キケマン・ホトケノザなど枚挙にいとまない。夏の日ざしの中を,蟻が列を作って歩いている。蟻はみな一つづつ種を咥(くわ)えている。


やや透けて薄き若葉の日影かな
若葉はみずみずしく初々しい。何とも目にやさしい。葉の裏側から日の光が透けて見える。否,日光に透けた葉が見えているのだ。緑は一段とやわらかく美しい。


ドア開けて新車のにほひ五月来ぬ
新車には独特のにおいがある。ドアを開けるとすぐに新車のにおいがする。いよいよ夏。新緑が眩しい。


空蝉の草をつかみて離さざる
瞬間的に大きな力が出るのは人も動物も同じであろう。蝉も成虫になる時は大きな力を出す。渾身の力で掴んだのでだろう。空蝉となった蝉の抜け殻は落ちることもなく,草にしがみついている。


暮れてなほ梢に日射し蝉の声
日が暮れても,高い木の梢には,まだ夏の日ざしが残っている。そのためか,蝉もしきりに鳴いている。


遠雷や光りて浮かぶ夜の雲
遠雷が聞こえる。と同時に空に稲光が走る。全く雲に覆われた曇り空ではなかった。夜空に漂う雲が光りに照らされてよく見える。


蜘蛛の糸細し光りてなほ細し
蜘蛛の糸は細いがよく見える。太陽光線に当たって光ると更に細くなったような気がする。何故だろうが。


暮るるほど明るくなれり夏の月
太陽が沈んでも夏空はなかなか暗くならない。空が明るい間は月は白く見える。しかし,暗くなるにつれて月は徐々に明るく輝いて来た。


天牛の力ひしひし指の先
天牛(かみきり)虫を指で抓む。逃げようと必死に,天牛はもがく。指先に伝わるその力は意外と強い。


若葉風人の崇むる老大樹
古木大木は人に大切にされ,尊敬される。古木には樹齢数百年を越えるものもある。尊敬される第一の理由は,その桁違いの長寿であろう。また,樹木は生きている限り花も実もつける。いくら年をとっても現役として立派に生きている。これが第二の理由かもしれない。



若葉して大き枯枝のありにけり
冬の間,木の葉のない時には,枝が生きているのか枯れているのか分からない。しかし,今若葉のない枝は枯れ枝である。若葉が出てはじめて,こんなに大きな枯れ枝があったのかと驚く。


卯の花や木洩れ日揺るる切り通し
鎌倉同様,観音崎には切り通しが多い。切り通しではわずかに,木洩れ日が揺れている。また,かたまって咲いている小さな白い卯の花が印象的である。すでに初夏。梅雨も近い。


潮引きし石を返せば小蟹散る
砂の中に。石の陰に。蟹は用心深く身を守る。潮の引いた海岸の石を退けると,小蟹が一目散に逃げる。観音崎の砂浜。


海底に日影のゆるる箱眼鏡
最近,日本の海は綺麗さを取り戻している。観音崎の浅い海。透明度は高い。日影が海底にゆらいでいる。箱眼鏡(はこめがね)で海中を見ると,乱反射がないのでよく見える。


入れられて真蛸はすでに壺の色
保護色。体色の変化。壺に入れられ真蛸(まだこ)は,すぐに壺の茶色に変わった。目で感知して,蛸は身体の色を変えるのであろうか。


噴水の泡寄り合へば消えにけり
噴水が高く上がっている。水が落ちると同時に沢山の泡が出来る。よく見ると,泡はいったん寄り集まって,それから破れて消える。


親しさの囲む輪小さき木陰かな
人が座る時,お互いの間隔が親しさの度合いを示すバロメーターである。木陰に座っているグループは多分仲良しなのであろう。囲んでいる輪が小さい。


黒南風や藻を寄せ返す波の音
大きな波に海藻が寄せては返している。海藻は海岸に打ち上げられることもなく,また沖に持ち去られることもない。空は雲って暗い。強い黒南風(くろはえ)。波音は高い。


霞草添えて引き立つ壺の花
霞草は単独で活けてもあまりパットしない。他の花と一緒にしてはじめて真価を発揮する。他の花と調和して,ハーモニーが生まれる。よき脇役がいてこそ主役は,主役たり得るのだ。


雲の峰白き灯台船員碑
観音崎には,日本最古の歴史を持つ洋式灯台,第二次世界大戦で亡くなった船員の慰霊碑がある。陸からよく見えるのは後者。前者は,当然,陸からはよく見えず,海からはよく見える。ともに真っ白。照葉樹林の緑の中に美しく聳える。
(注)上の写真は合成写真です。
灯台と戦没船員碑は同時に見ることはできません。


天草を干して日ごとの白さかな
観音崎自然博物館。展示資料作成のため寒天製作の実験をする。先ず,材料の天草を日にさらす。日に日に天草は白くなってゆく。太陽光線の漂白力は凄まじい。


脚の影大きく四つ水馬
強い夏の日差しを受けて,水馬(みずすまし)の影がはっきりと水底に映っている。影は大きい。表面張力で盛り上がった水の影が実際より大きくしている。水馬の脚は六つ。大きいのは,前脚を除いた四本の脚である。なお,ここで言う水馬はあめんぼうのことである。


新緑や地層斜めの切り通し
観音崎には切り通しが多い。山が浅く、住民が多く且つ軍事拠点であったためであろう。切り通しには地層が見える。海から山へ盛り上がったような地層が多く、山の成立過程を見るような気がする。切り通しは美しく、静かに新緑に囲まれている。


引く草の切れてながらふいのちかな
雑草という名の植物はない。どの草も名前を持っている。雑草とは明らかに差別言葉を指す。しかし,引く草と言う時は雑草を指す。雑草は強い。苛められるほど強い。弱いが故の強さである。切れるからこそ根が残り,命が残るのである。



夏落葉会津藩士の無縁墓
文化八年(1841)から十年間。会津藩は江戸防衛の任に当った。その間亡くなった藩士とその家族は約百三十人。その方々の墓が観音崎周辺にある。中には老女の墓もある。家族揃っての遠隔地への移住。並々ならぬ会津藩士の決意が窺われる。墓は鬱蒼とした照葉樹林に囲まれている。


梅雨晴や地衣に染まりし枝と幹
梅雨の中休み。久しぶりの晴れ。枝や幹が赤っぽく染まっている。地衣(ちい)が着生しているのだ。観音崎の照葉樹林でよく目にする現象である。


みどりより出でて紫陽花色あまた
紫陽花(あじさい),花になるまでは緑色をしているが,咲くといろいろな色になる。DNAの記憶は確かである。不思議でもあり,素晴らしい。


夏つばめ入り江を渡す舟一つ
浦賀港には一隻の渡舟が活躍している。客が合図すると、対岸にいても舟はすぐ迎えに来てくれる。


とどまりて我を窺う蜥蜴かな
するすると近づいて来た蜥蜴(とかげ)。私の出方を見極めようとしているのか。急に止まって動かない。私も立ち止まって動かない,両者のにらみ合いが暫く続く。


ひとところ海盛り上がり夏の海
海を眺めるのは楽しい。つい長時間飽きずに見てしまう。沖のひとところ海が盛り上がって見える。多分そこには隠れた岩があり,海が浅くなっているのであろう。


飛んできてすぐ鳴きだせり油蝉
飛んできて、止まるや否や油蝉は鳴きだした。なかなか鳴かない蝉も多いのに。






私の歳時記
<秋の句>


童謡は老いて忘れず赤とんぼ
年をとると物覚えが悪く物忘れが激しい。しかし,子供の頃に覚えたことはなかなか忘れない。童謡もその一つ。年をとってもよく覚えている。例えば赤とんぼ。赤とんぼを見るとすぐ童謡の歌詞が頭に浮かぶ。「夕やけ小やけの赤とんぼ・・・」メロディつきでつい口ずさむ。


暁のなほほの暗く花芙蓉
芙蓉は朝咲いて夕方にしぼむ一日花であるが,途轍もない早起きである。まだ明けきらないうす暗い早朝から咲いている。芙蓉の花と早起き競争をしたらまず勝ち目はない。一日しかない持ち時間を目一杯活用している。


日ごと減りやがて芙蓉は終の花
芙蓉は花期が長く,淡紅色または白色の大きな花を日毎咲かせる。しかし,秋が深まるにつれて花の数も次第に減り,ついには今日が今年最後の花となった。季節は容赦なく移り変わる。


人避けて先は電線椋鳥の群
地面で何か啄んでいた椋鳥の大群。人が来たので一斉に飛び上がって電線に止まった。多分,電線は一時的な避難場所であろう。高いところは遠くまで見える。行き先を決めるのに好都合である。人が通り過ぎたらまた降りるのか,あるいは遠くに飛び去るのかなどと,何故か気になる。


餌をとれば魚群再び秋の水
餌を取るために乱れた魚群は食べ終わると,またもと通りの魚群になる。観音崎自然博物館にて。


光る尾の長き一瞬揚花火
花火の魅力は,夜空を彩る鮮やかさと共に,一瞬のうちに消えるはかなさであろう。反面,光を長く保つため,花火は色々と工夫されている。例えば,大空をしだれ落ちる光。正に長い一瞬。見事としか言いようがない。


声伸びて山を越え行く鵯の群
鵯(ひよどり)の特色は波状の飛翔と「ピーヨ ピーヨ」と言う鳴き声であろう。秋の渡りの頃は数十羽数百羽の群れも稀ではない。身体も声も伸ばして山を越えて行く鵯の群れは正に壮観である。


きりぎりす喜怒哀楽は顔に出ず
きりぎりすは夏から秋にかけて見られる。我々人間から見ると,どれも同じ顔をして,区別がつかない。表情がないし,感情が感じられない。どう見ても,喜怒哀楽には無縁の顔をしている。


咲き初めてはやこぼれおり萩の花
萩は秋の七草の一つであるが,草ではなくて潅木である。小さな蝶形の花は,白色・紅紫色・淡黄色と,萩の種類によって異なる。また,咲くとすぐに散り出す。散りながら咲いているとも言えよう。


連打して光をつなぐ揚花火
花火の光は瞬間的。光ってはすぐ消える。少しでも光を長く保つため連打する。打ち上げ方の工夫である。作り方は勿論のこと,花火には様々な工夫がなされている。


飛びそうに見えて椋鳥なほ立たず
今にも飛び立ちそうなそぶりをしながら,椋鳥(ムクドリ)は飛び立たない。些か気合いをそがれた気分になる。しかし,よく考えて見ると,人が勝手に想像しただけで,椋鳥は何も言っていない。リズムが合わなかっただけのことであろう。


釣り船の止まれば揺るる秋の波
海は荒れている。釣り船は横波を避け,縦波を乗り越えながら沖に向かっていく。釣り場に着いてエンジンを止めると,船は大揺れに揺れた。止まると船はすべて波まかせ。よく揺れる。


後ずさり灯台撮れり秋の雲
観音埼灯台。高さ地上約19メートル。高い灯台を全部写真にいれるのはなかなか難しい。後ずさりし てやっと納める。空には白い秋の雲が広がっている。


鳥食ぶる順番ありし木の実かな
木の実にも鳥の好みがあるらしい。写真のカラスザンショウはクスノキ・ヤブニッケイなどと共に鳥の人気絶大。真っ先に食べられる。脂肪分が多いためだろうか。反対に,ビラカンサ・マンリョウなどは不人気組。最後に食べられる。


稀に訪ふ生家父母なく木守柿
親がいなくなると生家への足が遠ざかる。久しぶりに訪れた生家には昔変らぬ柿の木があり,枝先に実が一つなっていた。子供の頃の懐かしい記憶がまざまざと甦る。


赤とんぼ群れし光の舞ってをり
赤とんぼが湧き出たように大きな群をつくって舞っている。今日は、天気がよいので翅が光り,まるで光が舞っているように見える。さわやかな秋晴れの午後のひと時である。


向き変へて俄にはやし赤とんぼ
連続的飛翔。曲線の場合も,直線の場合も飛ぶ速さはほぼ一定している。しかし,虫を見つけた途端に全速力で飛ぶ。ふと赤とんぼの「見返り美人」が見られるような気がする一瞬である。


投げ釣りの竿のしなりや秋の浜
海岸で釣りをしている。所謂投げ釣り。出来るだけ遠くに(はり)を飛ばさなければならない。を海に投げ込む度に,澄み切った秋空に竿は大きくしなる。


下戸のみの早く終わりし月の宴
宴会には酒食がつきもの。酒が入ると話がはずみ,時のたつのも忘れて宴会は楽しく且つ長くなる。今日の月見の宴は飲めない人だけだったので,早く終った。酒の効用は確かである。しかし,肝心なのは月を愛でる心・風流心である。酒は添え物・・・・・言わずもがなの下戸のつぶやき。


打ち上げし海月の光る秋の浜
海月が浜に打ち上げられている。水海月であろうか。かなり大きな白い半透明の海月が砂浜に光っている。海に海月が出るようになると海水浴が出来なくなる。夏は終り,いよいよ秋本番である。


底赤く小川の淀む蓼の花
水が無色で澄んでいるのに,小川の底は赤い。流れは遅く,ところどころ淀んでいる。水辺には蓼の花が咲いている。川の底は何故赤いのであろうか。子供の頃に明礬(みょうばん)があると赤くなると聞いたような気がするが,定かではない。ご存知の方がいたら教えていただきたい。


ばらばらに見えて群れをり四十雀
美しい鳥が庭に来るのは嬉しい。十羽ほどの四十雀。お互いに可なり離れて何か啄んでいる。暫くしたら四十雀は一羽残らずいなくなっていた。やはり群れていたのだ。


運動会父母の力走速からず
運動会に参加する父母は子供より緊張している。子供によいところを見せようとして親は一生懸命に走る。しかし,力み過ぎて気持ちと裏腹にスピードは一向に出ない。


磯菊のにほひ俄に海の風
磯菊は関東地方の海岸の崖に生える。黄色の花には花びらがない。青い海を背に咲く磯菊は観音崎を代表する景観の一つである。絶滅を防ぐために,観音崎の博物館では磯菊のさし芽を毎年行っている。時折,海風が磯菊の芳香を運んでくる。


野仏に供ふ野の花曼珠沙華
野仏には何時も花が供えられている。季節ごとの野の花である。今は曼珠沙華。お供えをしているのは多分近所に住む老婆。素朴な信仰心,仏を崇める純粋な気持ちには頭が下がる。心を形に表して,それを人知れず長年欠かさず続けている。素晴らしいことである。


整地して家まだ建たず猫じゃらし
整地された土地。空き地になって久しい。しかし,まだ家は建っていない。その間隙を縫うように,猫じゃらしが沢山出てきた。その繁殖力生命力の強さは凄い。因みに,猫じゃらしは,古く,農耕伝来と共にユーラシア大陸から日本に入ってきたと言う。


撒く餌に魚群乱るる秋の水
群を作る魚。例えばゴンズイの幼魚。「ゴンズイ玉」とも言われる大きな団子状の群を作る。群れた百匹がまるで一匹のように見える。群は餌を撒く度に乱れる。しかし,それは一瞬。またすぐもとに戻る。水槽は真横から見るので魚の動きがよく見える。観音崎自然博物館にて。


じっと持つ線香花火揺れ止まず
動かないようにしようと思えば思うほど,逆に手が動く。大きく揺れれば火の玉が落ちる。困ったことに,揺れ出すとなかなか止まらない。


炭坑の閉じて廃れぬ踊歌
三井三池炭坑。閉山されて久しい。しかし,そこで生まれた炭坑節は今なお健在。盆踊りの主役である。因みに,炭坑は1997年に閉山し,約500年の歴史の幕を閉じたと言う。


虫かごに脚折れ易ききりぎりす
きりぎりすは脚が折れ易い。そっと大事に手で包むようにやさしく持ってかごに入れる。時代と共に,虫かごは竹製からポリエステル製に切り替わったが,きりぎりすの後脚は相変わらず折れ易い。


伏す草に風向き知りし野分あと
台風が去って野原の草は一様にひれ伏している。草はすべて同じ方向を向いて倒れている。草の倒れている方向を見れば,台風の風向きがよくわかる。


赤き実に小鳥まだ来ずピラカンサ
ピラカンサの実が赤く熟したが,小鳥はまだ来ない。小鳥は鵯(ヒヨドリ)か椋鳥(ムクドリ)。群をなして来る。来れば,ピラカンサの実は二三日で食べ尽くされてしまう。今日も小鳥が来ないことを願いながら,ピラカンサの美しい赤い実を眺めている。


秋晴れや海高く見ゆ坂の上
当然のことながら,海は陸より低い。まして坂の上よりは遥かに低い。しかし,おかしなことに,坂の上に立つと海が高く見える。今日は秋晴れで沖までよく見える。


小鳥来る梢まぶしき日ざしかな
小鳥が渡ってきた。小鳥のいる高い木々の梢を見上げると,日ざしがまぶしい。


山道に落枝踏む音野分あと
台風の後の山道。青葉に混じって小枝が沢山落ちている。踏みしめるたびに,落枝(らくし)が折れる。小枝の折れる音を聞きながら山道を行く。


台風の過ぎて時折強き風
一晩中吹き荒れていた台風も過ぎ去った。しかし,時々思い出したように強い風が吹いている。台風の余波であろう。


鳶の輪のあまりに高し秋の空
鳶は輪を描きながら,空高く舞い上がって行く。何故あんなに高く上がるのだろうか。餌をとるのには高すぎるように思える。


垂れ下がる紅葉一枚なほ落ちず
桜の紅葉は一枚一枚に沢山の色があり独特の美しさがある。一枚の桜の紅葉が今にも落ちんばかりに垂れ下がっている。しかしなかなか落ちない。



山頂に夕日なほある紅葉かな

日が沈みあたりは少しづつ暗くなってきたが,わずかに山頂だけは日が当たっている。紅葉は夕日に映えて美しく輝いている。


止まるよと見えて止まらず秋の蝶
秋の蝶は春の蝶と比べてやや元気がない。と思ってみていると,さにあらず。止まりそうになりながらなかなか止まらない。


高階の夜景はるかに虫の声
高層マンションに住んで早六年。海の見える夜景が素晴らしい。ベランダに出ると遙か下の方から虫の声が聞こえてくる。


鳴き声の間のびしてきし鉦叩
鉦叩(かねたたき)は名前の通りチンチンと区切って鉦を叩くように鳴く。しかし,秋も深まり,気温が低くなったためか,鳴き声のテンポが遅くなってきたように感じる。体が弱ってきたのであろうか。


水槽の魚みな白しそぞろ寒
観音崎自然博物館。大小の水槽に魚が飼育されている。室内で日が差さないためか魚が白っぽく見える。言わば深窓の美人。何となく寒さを感じる今日この頃である。


遠近の声つながらず秋の蝉
秋になって蝉の数も減ってきたのであろう。遠近で聞こえる蝉の声はつながらず間隔が空いてきた。


仰ぎ見る我もいつしか秋の雲
草原に仰向けに寝そべって秋空を眺める。暫くすると,自分も雲になって秋の高い空を漂っているような気がして来た。なんとも不思議な気分である。


アナウンスを谺すぐ追ふ運動会
山間の小学校の運動会。アナウンスが聞こえる。しかし,谺(こだま)がアナウンスをすぐ追いかけ,声がダブって聞き取り難い。


ファインダーなほ揺れ止まぬ草の花
写真に撮ろうとすると,花は何時も揺れている。少しの風にも揺れる。また,困ったことに,風はなかなかおさまらない。


傾きてこぼれぬほどの萩の雨
雨粒をいっぱい溜めた萩は,雨の重さで傾いている。しかし,こぼれそうに見えながらも,何とか持ちこたえて,雨粒はこぼれない。


実をつけて蔓の細さよ烏瓜
烏瓜の実はかなりの大きさである。しかし,これを吊す蔓は細い。良くこんな細い蔓で支えられるものだと思う。


なほ煙る線香ありし墓参かな
墓参りをする。墓には火のついた線香が煙っていた。一足違いの墓参。先に来たのは誰だったのであろうか。


みな伸びて地を這う菊となってをり
植えられている菊は,茎の先に花をつけている。茎が伸びるとその重さに耐えられず菊は立っていることが出来なくなり,地面に横たわっている。


取れそうで取れぬ高さの烏瓜
烏瓜(からすうり)が赤い実をつけている。崖縁の少し高いところである。取れるかと思って近づくと,思ったより高いところにある。足場も悪いし,取れそうにもない。



朝顔の明日咲く色の蕾かな
朝顔の蕾(つぼみ)が大きくなった。多分咲くのは明日の朝。花の色を知らせるかのように色づいている。


雲はやし高さ異なる渡り鳥
秋の空を見上げる。雲の動きが早い。空には渡り鳥の群れが見える。鳥の高さは種類ごとに違っている。


鳥渡る人影のなき小漁港
天高い秋の昼下がり。漁船も出払って,人影もない。のどかな人の気配のない小漁港である。


秋桜ぶつかり合へば支へ合ひ
群生するコスモス(秋桜<あきざくら>は見事である。コスモスは茎が細い割には背が高い。また、風の強い季節に花を咲かせる。風に吹かれてコスモスは揺れ、ぶつかり合う。しかし、ぶつかりながら、互いを支え風から身を守っている。


蟋蟀は聞くべし姿見ざるべし
暗いところで生活する蟋蟀(こおろぎ)は目でものを見る必要がない。目は退化して、長い触覚がその代用をする。また、鳴き声も大事である。美しいやや淋しげな鳴き声。姿などどうでもよいのだ。


横波を避けて並びし鯊の舟
風は強いが,釣り日和なのであろう。鯊釣(はぜつり)の舟が数多く見える。小舟は横波に弱い。横波を避けるためであろう。釣り舟はみな波に舳(へさき)を向けている。


低く来てすでに木の上鵙の声
畑の向こうに高い木。地面すれすれに低く飛んできた鵙(もず),急上昇して木の天辺(てっぺん)に止まった。独特のキイキイと鋭い声。


芋虫の挑むがごとく頭を上げり
芋虫が挑むように頭を上げた。一寸の虫にも五分の魂。小さな虫でも、自分の意思を示し歯向かうことがあるのだ。


色添えて葎淋しや烏瓜
赤は暖色である。しかし,烏瓜の赤は何故か淋しい感じがする。形のためであろうか,心もとなくぶら下がっているように見えるからであろうか。葎(むぐら)はすでに秋色。赤い烏瓜の実があるにも拘らず,葎の寂しさは一向に減らない。





私の歳時記
<冬の句>


寒雀一羽下りればつぎつぎと
木の上に固まっていた寒雀が次々に下りる。最初の一羽はリーダーであろう。リーダーが下りると,一団はこれに従う。多分,地面は安全で,食べ物があるのであろう。


日だまりは風を通さず帰り花
帰り花。狂い咲き。季節外れの花が咲いている。これらの花は暖かいところが好きである。と言うより暖かいところがあるからこそ季節外れの冬に花が咲くのである。暖かい風の通らない日だまりでよく見られる。


群れ千鳥急旋回の速さかな
今まで砂浜を歩いていた千鳥の大群。空に舞い上がったかと思うと。一斉に急旋回。しかし,スピードは一向に衰えない。驚くべき速さである。よくぶつからないものだと感心する。


雪道に慣れし小幅の歩みかな
今年は,当地でも二週間続きの大雪があった。雪道に慣れないと何時も通り大股で歩いて滑っては転ぶ。しかし雪道に慣れた北国の人は小幅に歩いて滑ることはない。


冬晴れや三浦房総指呼の間
観音崎と富津。その間約7キロメートル。東京湾で最も狭いところである。房総半島は三浦半島(観音崎)から,雨の日などかすんで見えないこともあるが,晴れた日にはよく見える。特に空気の乾燥した冬には,ごく間近に見える。


新暦かけてその上古暦
来年の暦を頂いた。すぐに壁に掛ける。しかし,今年もまだ幾日か残っている。もう少し古い暦に働いてもらわなければならない。新暦の上に古い今年の暦をかける。あと数日の現役の暦である。


枝枯るる支えし蔓に支へられ
藤の蔓であろうか。可なり太い蔓である。その蔓が絡んでいた木の枝が枯れて折れてしまった。そのため今度は逆に枝が蔓に支えられている。立場の逆転である。


枯木立日向日影に色わかれ
樹木がすっかり葉を落とした冬の雑木山。日の当たっているところは見るからに暖かそうである。反対に日の当たらないところは寒々としている。日向日影の色の違いが対照的である。少し離れたところから見るとすぐ気がつく。


冬ぬくし白だも花も実もつけて
冬になると,白だもは花と実を同時につける。実は去年の花が実って 熟したものである。黄褐色の花と赤い実と緑の葉が調和して美しい。 因みに、白だもは観音崎を代表する照葉樹の一つである。


走り根の踏まれし艶や落葉径
落葉に埋もれながら走り根が浮き出て見える。よく見ると走り根には艶がある。人に踏まれて出来た艶であろう。山径に人の行き来が多いことを物語っている。


一山を覆ひてをりし葛の枯れ
葛の繁殖力は凄い。夏になると蔓を伸ばして,木や山を忽ち覆ってしまう。 しかし,冬にはことごとく枯れる。栄枯盛衰の典型さながらである。


寒柝に子の声まじる裏通り
「火の用心」「火の用心」拍子木に合わせて,裏通りを寒柝 (かんたく)が行く。中には子供もゐる。元気な大きな可愛いらしい子供の声に,家族参加の明るい雰囲気が伝わり,冬の夜寒のさびしさが和らぐ。


枯木立枝重なりて烟るごと
冬の木立。木々はすっかり葉を落としている。その細い枝が重なり合ってぼんやりとかすんでいる。あたかも煙っているようだ。


冬怒涛海鵜ゐる巌定まれる
鳥は概ね決まった時間に決まった場所にいる。海鵜は,海に入る時を除いて,日中は大抵岩礁にいる。また,その岩礁も決まっている。海と岩礁と海鵜。観音崎ならではの素晴らしい景観である。巌には冬の荒い波が砕け散っている。遮るものがないのでよく見える。


竹林の下草生えぬ落葉かな
竹が地下茎で繋がって竹林は形成されている。地下茎は浅く地表の近くを這うように広がって,ひげ根をびっしりとつけている。そのためか下草はなかなか育たない。目立つのは林床に積もっている落葉だけである。


竹馬のよろけついでに駆け出せり
竹馬は止まったり,ゆっくり進むことが苦手である。自転車同様一定のスピードがないと,バランスがとれないで倒れてしまう。よろけて倒れそうになった竹馬は,バランスをとるために駆け出した。因みに,竹馬は昔は男の子の遊び道具の花形だった。そのため,幼なじみのことを「竹馬(ちくば)の友」とも言ったが,今や廃れて死語に近い。


蝋梅の光集めて黄色なる
梅の名がついているが梅ではない。蝋梅は葉が出る前に,香りのよい黄色い花を沢山つける。花が蝋細工のように半透明で光沢があるため蝋梅の名がついた。春の日を浴びて庭には蝋梅が咲いている。花が日光を黄色い光に変えているように見える。暖かい冬の午後。春は近い。


罅割れの巌は動ぜず冬の波
海の力・水の力はとてつもなく大きい。また,磐石と言う言葉があるように巌は堂々として強い力に対しても動じることはない。よく見ると巌(いわ)には罅(ひび)が入っている。しかし,巌は冬の荒波にびくともしない。


小波を乗せて大波冬の浜
浜には冬の大波が打ち寄せている。よく見ると大波の上に小さな波がいっぱい乗っている。荒海の波をすべて集めて大波となっているのだ。


晴れてなほベンチ乾かぬ落葉かな
雨が止むと,普通ベンチはすぐ乾く。しかし,何か濡れたものが置かれていると乾き難い。今日は,雨をたっぷりと吸い込んだ落葉があるので,ベンチはなかなか乾かない。雨が上がってもすぐにはベンチに座れない。


枯れ枝にかかりて飛ばぬ羽毛かな
木の枝に羽毛が一つかかっている。羽毛は風に吹かれて激しく揺れている。今にも飛ばされそうに見えるが,枝にくっついて離れない。


海引きて赤き藻の帯冬の浜
引き潮の冬の浜。藻が打ち上げられて,満潮時の潮位を示している。長い帯状の一筋の藻は,さびしい冬の浜を赤く彩っている。紅一点。荒涼とした冬の風景が若干和らぐ。


風強し舗道を走る落葉かな
冬は湿度が低いため,落葉はからからに乾いている。風の強い街中。落葉は乾いた音を立てながら舗道を吹き飛ばされている。冬の寒さと淋しさを一層感じる一瞬である。


日だまりに猫のかたまり冬うらら
猫は寒さに弱い。暖かいところが好きである。童謡でも「猫はこたつで丸くなる」と言う。冬の快晴の日だまりで,猫が数匹日向ぼっこをしている。うららかな冬の昼である。


手を振れば渡舟すぐ来る冬鴎
最近は橋が増えて,渡舟が少なくなった。しかし,距離は短いが,浦賀港には東西浦賀町を結ぶ渡舟がある。舟は向こう岸にいても,手を振るとすぐ迎えに来てくれる。海には鴎の乱舞。情緒豊かな心温まる港である。


一つづつ雨滴をためて実南天
南天に実が沢山ついている。また,その赤い実すべてに雨滴がついている。雨滴は雨が上がっても落ちない。実がひとまわり大きくなったようにも見える。「難を転じて福となす」と縁起の良い名前を持つ南天。ほのぼのとした気持ちで,その光り輝く美しさに見とれる。


遠近に寺多かりし除夜の鐘
普段意識していないことでも,何かのきっかけで気がつくことがある。大晦日の夜,電気を消して横になると,除夜の鐘の音が方々から聞こえてきた。近くにお寺が沢山あったのだ。


実千両紅秘めてなほ白し
千両の実が熟すのは十二月過ぎ。冬に入ったばかりで,まだ白い。熟すまでにはもう少し待たなければならない。今は白くても時が来れば必ず紅くなる。今暫くの辛抱である。


対岸に吹かれて鴨のかたまれる
こちら側は,風がまともに当たるためであろう。岸の近くには鴨は一羽もいない。鴨は対岸にかたまっている。


塀際の万両長く実を持てり

万両は強い日射しをあまり好まないので,木陰とか塀際に植えられることが多い。塀際にある万両は,鳥が来にくいせいか,何時までも赤い実をつけている。


日だまりや大地啄む寒雀
日だまりには寒雀の群がいる。餌があるのであろう。しきりに大地を啄んでいる。暖かい冬の昼下がり。


岩礁に海鵜動かず冬の海
海鵜は長時間海に潜って魚を捕まえる。しかし,水に潜ることが得意なくせに,濡れることは嫌いなようだ。岩礁には漁を終えた海鵜の群が見える。羽を乾かしているのだろう。冬の岩礁海岸でよく見られる光景である。


踏み入りし林の深き落葉かな
林床には落葉が積もっている。一歩林に足を踏み入れて驚いた。落葉は深く,危うく足をとられそうになった。


山眠る木の芽ひそかに育ちをり
冬の山。落葉樹はすっかり葉を落としている。しかし,枝先にある冬芽は春に備えて,日ごとに膨らんでいるように見える。


天井にすがり動かず冬の蠅
見上げた天井に冬の蠅が一匹。全く動かない。生きているのか。死んでいるのか。生きているのだ。死ねば落ちる。生きていればこそ,しがみついているのだ。


北風吹きて南は凪の岬かな
海に突き出た岬に特有の現象。ごく近いのに南側と北側に面したところでは,風が強く吹いたり全く吹かなかったりする。…「観音崎の風と波」参照


走り根や雨水たまる落葉径

雨後の落葉径。走り根が目立つ。走り根は地面を囲うように這っている。また,土が減ってそこに雨水がたまっている。


飛び降りて雀近づく日向ぼこ
公園で日向ぼこをしながら昼食の弁当を食べる。少し離れたところに雀が飛び降りて,ぴょんぴょんと近づいて来る。弁当のおこぼれを期待しているのであろう。


虫光る冬のひざしの外に出でず
風のない穏やかな冬の日射しの中で虫が沢山舞っている。何故か,虫は日射しの外には出ない。虫が求めているのは,明るさであろうか,それとも温もりであろうか。


冬怒涛洞穴残し海退ける
観音崎にある海蝕洞穴。道を一つ挟んで海は少し下にある。明らかに,洞穴は海に置き去りにされている。荒い海の怒涛も洞穴までは届かない。因みに,三浦半島の隆起は今なお続いていると言う。今後,海は更に遠くなるであろう。


日だまりや海這ひ出でて鴨の群
鴨の一群が海を這い出て日向ぼこをしている。水鳥にとっても,冬の水は冷た過ぎるのであろうか。身体を温めているのであろう。


大焚火避けて煙に追はれをり
焚火を囲む。煙が来る。煙を避けようと場所を変える。風が回っているせいか,動けば動いたところにまた煙が来る。まるで煙に追いかけられているようだ。


浸す手にぬくし小春の忘れ潮
岩の窪みの忘れ潮。手を浸けたら暖かい。小春の暖かい日ざしに暖められたのであろう。小春のほのぼのとした気分に浸る。


身の枯れてつなぐいのちや草の種
草は冬になると地上部分が枯れる。茎や葉の寿命は普通一年である。多年草は根も残るが,それ以外の草はすべてを種子に託して種の維持を図る。個体より種族維持を優先した草の戦略である。


訪ふ虫の絶えず日蔭の花八手
八手は陰樹。冬咲きの白い地味な花をつける。花に集まるのも蠅とか虻。地味な虫が多い。しかし,日蔭に咲いているこの花には訪問者が絶えない。何時見ても虫がいる。


落日や五階にひとつ干布団
沈む太陽。残照がビルの高階にある。団地の五階にはまだ布団が干してある。何故か気になる。留守なのだろうか。


ひとところ臭ひの強し濡れ落葉
山を歩くと,時々臭いの強いところがある。今日は落葉径を歩いていて,強烈な臭いのするところがあった。臭いの正体は分からない。


草の葉のむらさきにじむ寒さかな
冬になると,殆どの草は枯れる。しかし,葉が紫色になりながら,必死に寒さに耐えている草もある。とにかく寒い。


霜柱浮きて崩れず崖の土
霜柱に浮き上がった崖の土は,今にも崩れそうである。しかし,崖は崩れず,意外と安定している。危ないぎりぎりのところでバランスを保っている。


冬空に欅の梢溶け込まず
(けやき)の大木が冬空高く梢を伸ばしている。梢は空に溶け込むこともなく、はっきりと見える。細い梢はきっちりとその存在感を示している。


倒れても折れても切れず枯芒
(すすき)の茎は丈夫である。枯れても,折れても,曲がっても切れない。簡単に折り取れるものではない。折れやすいが切れにくいのである。


冬すでにどの蜘蛛の囲にも蜘蛛をらず
木々の枝にはまだ蜘蛛(くも)の囲(い・巣)が残っている。しかし、どの蜘蛛の巣にも蜘蛛はいない。もう冬なのだ。


かたまって枝に動かず寒雀
寒い冬の朝,寒雀が数羽かたまって枝に止まっている。羽をふくらませて動く気配もない。ふくらんだ羽は暖かそうに感じられる。


影伸びてやがて寒暮の影の中
日が西に傾くに従って影は長く伸びる。日が沈むとすべては影。個々の影はその大きな影の世界に吸収される。暗さとともに寒さは一段と厳しい。次に来るのは闇の世界だ。


音消えて土になりゆく落葉かな
乾燥してからからになった落葉。踏めばかさかさと大きな音がする。しかし、暫くすると音がしなくなる。湿って柔らかくなり、腐ってくる。土に還る日も近い。


冬晴やいてふの幹に枝の影
光線が強いほど影は鮮明になる。冬の良く晴れた日。銀杏の幹に枝の影がはっきりと映っている。枝には葉が一枚も残っていない。


岩礁やみな沖を向く冬鴎
岩礁に鴎(かもめ)の群れがいる。みな同じ方向を向いて並んでいる。じっと沖を見つめている。鴎は一体,何を見ているのであろうか。


寒灯のとどかぬ闇の深さかな
冬の夜。公園の電灯。明るいのは電灯の真下だけ。光は闇の中に消えている。光の照らす狭さが闇の深さを物語っている。


やはらかき小径となりし落葉かな
山の小径を歩くと気持ちがよい。ふわふわとした土の柔らかい感触が足に快い。落葉が朽ちて土となって,この柔らかさが生まれるのだ。


引鴨となる日の近し羽搏ける
冬を日本で過ごした鴨も帰る日が近づいてきた。鴨が海で羽搏(はばた)いている。冬が終わりに近づくとともに,その羽きにも力が入ってきたように感じられる。長距離飛行のウォーミングアップなのだろうか。

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