観音崎砲台跡
B 北門第三砲台
場所の名称:海の見晴らし台
(旧第一展望台園地)

起 工 明治15年(1882)
竣 工 明治17年(1884)
28センチ砲据付 明治27年(1894)
除 籍 大正14年(1925)
大砲種類 28センチ榴弾砲
砲座数 2砲座(現存:1砲座)
レンガ構造 フランス積/イギリス積
平成17年(2005)見学記
 
 北門第三砲台は左右対称に2砲座を配置,1砲座に28センチ口径榴弾砲が2門設置され,千代ヶ崎・浦賀の東方あるいは南方海面を射撃して敵艦の攻撃を妨害し,合わせて観音崎北方の海面を射撃することを任務としていた。現在は左砲座が取り壊され海の見晴らし台となり,右砲座だけが残されている。・・見学会配付資料から一部修正して転載

 明治維新から日露戦争で勝利を収めるまでの日本を描いた司馬遼太郎著「坂の上の雲」の四巻・五巻では,”二〇三高地奪取”や”旅順陥落”に28センチ口径榴弾砲が活躍,その榴弾砲は観音崎砲台に設置されていたものを取り外して,戦地へ送られたと記されている。

 私はこれまで,その榴弾砲が観音崎のどの砲台に据え付けられていたのか知らなかったが,今回の見学会で配付された資料を見ると,28センチ口径榴弾砲が設置されていたのは第3砲台のみであることが判明,数年来の疑問が氷解した。

 尚,第三砲台の付属構築物はフランス積で造られているが,園路から海の見晴らし台へ通じるトンネルは,建設当時は素堀で造られていたものを,後にイギリス積で補強している。

苔むしたレンガ構築物はフランス積

トンネル出入口

トンネル補強部分のレンガはイギリス積
明治150年(2018)追記
  
 第一砲台・第二砲台及び三軒家砲台跡には,それぞれの砲台のいわれや構造等について記した解説板が設置されている。解説板は公園開設時の1975年頃に制作されたものと思われるが,板面がステンレス製のこともあって,古びて若干見難くなっているがいまだに健在である。ところが何故か,第三砲台にはその解説板が設置されていない。そこであれこれ調べたところ学研プラス発行・原剛監修「日本の要塞」に掲載されているイラストが第三砲台とほぼ一致することが判明,ここに引用させて頂いた。

 イラストには「曲射弾道の榴弾砲は,胸墻を高く造ることができた。このためイラストのようなすり鉢状の砲座も存在する。砲座は付近に必ず観測所が置かれ砲との連絡は伝声管で行われた。」とコメントされているが,第三砲台の砲座の形状及び観測所の位置もほぼこのイラスト通りとなっている。

 但し,図にある榴弾砲そのもの及び砲床は現存せず,観測所も破壊されているが,原形をうかがい知る事はできる。又,砲弾運搬用レールは地下にあるため確認することはできない。
 
右砲座跡
         
 第三砲台の左右砲座には,往時それぞれ上記イラストの通り2門の28センチ榴弾砲が据え付けられていた。それもあって,24センチ加農砲が各1門据え付けられていた第一・第二砲台に比べると砲座の面積がだいぶ広く感じられる。
   
右翼観測所跡
         
 右砲座跡の石段を上がり直ぐに右へ曲がった突き当たりの胸墻上部には右翼観測所へ通じると思われる小さな石段があるが,足場が無いためそこから上がる事はできない。そこで砲座の前方,かって見晴し台があった方から行ってみることにした。
   

観測所へ通じる石段
 砲座前には胸墻沿いに高さ60〜70cmほどの石積みの塀があった。私でも簡単に上れる高さだが,観測所がある辺りは藪の中,それらしきものは何も見当たらない。夏も過ぎたのでマムシも出ないだろう?と決め込んで薮へ分け入ることにした。

 薮の大半はアズマネザサ。比較的それが少ない場所を選んで進むことにしたが,地面をよく見たところ細くて心もとないながらけもの道のようなものがある。それを辿っていくと直ぐに観測所跡に着いた。どうやら私のような物好きが結構いるらしい。砲座跡は破壊され何も残されていなかったが,左翼観測所跡に比べればだいぶましな状態と言える。
    

右翼観測所付近から見下ろした右砲座跡
左翼観測所跡
         
 左翼観測所跡は砲台跡から海の見晴し台園地へ通じる緩い坂道の左手にあるが,そこは崖地の藪の中。遺構は原形をとどめないほど破壊され,単なる瓦礫と化して自然の中に埋もれようとしていた。
   
揚騨井
         
 右砲座の左側,取り壊された左砲座との中央部にフランス積の揚騨井がある。内部は破壊されそれらしきものは何も残されていない。また,揚騨井の真下にある砲側弾薬庫も地下へ通じる階段が道路下に埋没して内部へ入ることはできない。揚騨井下のレンガ積みの下部,落葉に埋もれた道路上に,弾薬庫出入口のアーチ状上部が僅かに顔をのぞかせ,その存在を主張しているように見えた。

 改めて揚騨井とその周辺を見渡していると,いかにも廃墟然として今にも朽ち果てようとしている状態に暗澹たる気持ちになった。木々が生長して大木となり,その根がレンガの隙間に入り込み大きな亀裂となり,いずれレンガ積みが崩壊してしまうのでは?揚騨井のアーチ状石積の上に生えた木は台風で倒れて揚騨井を破壊してしまうのでは?対策が急がれる。
    

砲側弾薬庫出入口のアーチ状上部
トンネル
         
 第三砲台へ通じるトンネルの側壁は素掘りのままの部分とイギリス積レンガで補強された部分が混在していいる。これは私の推測で確証はないが,砲台が完成した時点では素掘りのトンネルだったものが,その後,地層の一部が脆弱だったため崩壊,その箇所をレンガで補強したと考えられる。尚,アーチ状の天井部分は崩落防止のため小口積みレンガで全て補強されている。従って,素掘りのまま残された部分は堅固な地層のようで,変化に富んだ異様とも言える特異な地層が多く,それが形成された過程を想像してみるのも一興だ。
   
 
掩蔽壕
         
 トンネルを抜けると左手に2棟の掩蔽壕が目に飛び込んでくる。掩蔽壕は揚騨井等の付属施設がフランス積レンガ構造の第三砲台より後の時代に造られたと思われ,出入口左右の壁はイギリス積のレンガ造りになっている。 

 又,出入口はコンクリートで閉ざされて内部へ立ち入ることはできないが,コンクリートの左右,地面から1mほどの高さのところに四角形の開口部があり,小型カメラを差し込んで撮影したところでは,内部もイギリス積みであることが確認できた。
 

小さな四角形の開口部から撮影した掩蔽壕内部の写真
  
園地名改称&園地改善提案
         
 北門第三砲台跡のある園地名の「海の見晴らし台」は看板に偽りありで,現在は園地内にそれらしきものは見当たらない。絶景ビューポイントを期待して訪れた来園者は失望すること間違いなしの状態にある。当初はいずれ安全性を重視した見晴し台が新設されるものと期待していたが,いまだにその計画は無さそうだ。・・・・・・詳細は「海の見晴らし台」のページ参照

 北門第三砲台跡は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」にも登場する日露戦争で活躍した28センチ榴弾砲が設置されていた場所。又,その大砲が国産化された時,試射した場所としても知られている歴史的に貴重な遺構。

 そこで園地名を「海の見晴らし台」から「北門第三砲台跡」へ名称を変更,名実ともにそれに相応しい園地とする事を提案したい。予算的な都合もあるかと思われるので,直ぐに実行に移すのは無理としても,3〜5年計画で実現して欲しい事項を思いつくままに緩急順序をつけて列記してみた。

 1.園地の名称を「うみの見晴らし台」から「北門第三砲台後」へ変更。
 2.トンネル内の照明をより明るいLED直管蛍光灯に交換。
 3.倒木や根の生長により遺構を破壊する恐れのある樹木を伐採。
 4.損傷の著しい揚騨井と地下弾薬庫上部のレンガ壁については早急に修復。
 5.園地周辺の視界を遮っている樹木を可能な限り伐採・剪定。
 6.旧見晴し台跡付近に安全性・耐久性を重視した見晴し台の新設。
 7.新見晴し台の最上部に砲台付属の実物大観測所模型を設置。
 8.砲台跡に往時と同じ金属製の実物大榴弾砲模型を設置。
 9.道路下に埋没している地下弾薬庫へ通じる階段を掘り起こす。
10.地下弾薬庫内を開放して内部を見学できるようにする。

1.園地名称を「うみの見晴らし台」から「北門第三砲台」へ変更
   
(変更前) (変更後)
 2.トンネル内の照明をより明るいLED直管蛍光灯に交換
  
 3.倒木や根の生長により遺構を破壊する恐れのある樹木を伐採
  
4.損傷の著しい揚騨井と地下弾薬庫上部のレンガ壁については早急に修復
  
  
5.周辺の視界を遮っている樹木を可能な限り伐採・剪定
  

モデル:戦没船員の碑からの眺望
 6.旧見晴し台跡付近に安全性・耐久性を重視した見晴し台を新設
 

モデル:城ヶ島公園展望台
 7.新見晴し台の最上部に砲台付属の実物大観測所模型を設置
   

学研プラス発行・原剛監修「日本の要塞」のイラスト

モデル:第二砲台観測所跡
8.砲台跡に往時と同じ金属製の実物大榴弾砲模型を設置
 

モデル:2009年〜2015年 展望園地に設置されていた木製実物大榴弾砲模型
9.道路下に埋没している地下弾薬庫へ通じる階段を掘り起こす
 

モデル:2011年フィールドレンジャー有志が三軒家砲台跡の
階段に堆積した落ち葉や泥を除去した時の状態
10.地下弾薬庫内を開放して内部を見学できるようにする
 

モデル:第二砲台・第3砲座砲側弾薬庫内部

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