が幕府の命令を受けて,三浦半島の海岸警備ならびに台場(砲台)構築の任務に当たったことに始まる。これは当時,漂流民の引渡と通商を求めて日本沿岸に出没する外国船に対して,鎖国をしていた徳川幕府としては,それら外敵からの江戸城防衛のため,緊急の大事であった。 幕府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは同藩に対する信頼が篤かったためと考えられ,そうした幕府の期待に応えるべく,藩主は直ちに家老西郷頼母をはじめ800余名の藩士ならびにその家族を同年11月に送り込んだ。そして観音崎・浦賀平根山・城ヶ島に台場を構築した。 文政三年(1820)12月にその任務は解かれたが,その間,会津藩士はいずれも一家を挙げて,居をこの地に移して海防の任務にあたった。彼らにとって,はじめて経験する異郷での10年間にわたる生活は厳しいものであったにちがいない。いま三浦半島の8ヶ所に存在する墓石がそれを如実に物語っている。観音崎周辺地域には(鴨居)西徳寺・(鴨居)能満寺・(腰越)三昧堂・(走水)円照寺の4ヶ所に存在する あわせて,我々はこの台場構築という重大な土木工事のために地元横須賀の人々も働いていたことも忘れてはならない。そして嘉永六年(1853)には,ペリーが浦賀に来航し開国への道を進む。 この会津藩士墓地は開国という大きな歴史の流れの中で,江戸湾(東京湾)および三浦半島を守るために活躍した藩士と幕末の横須賀を知る上で貴重な史跡である。 |
||||||||
※腰越墓地にある横須賀市教育委員会案内板から引用 | ||||||||
|
||||||||
|
||||||||
観音崎周辺地域に散在する会津藩士の墓を巡りながら,観音崎の豊かな自然に触れていただく,3〜4時間の歴史と自然の探訪コースをご紹介したい。 | ||||||||
(コースの概略) | ||||||||
京急・浦賀駅前から「観音崎」「かもめ団地」「鴨居」行のバスに乗車 〜 鴨居バス停下車 〜 西徳寺 〜 能満寺 〜 八幡神社 〜 三昧堂 〜 花の広場 〜 走水展望広場 〜 ふれあいの森 〜 走水神社 〜 円照寺 〜 走水神社前バス停から横須賀方面行のバスに乗車 〜 京急・馬堀海岸駅 or 京急・横須賀中央駅前 or JR横須賀駅下車 |
会津藩士の墓
西 徳 寺
(東光山無量寿院・浄土宗)
西徳寺は鎌倉の光明寺の末寺として,永禄3年(1560)法譽順性上人によって開かれた。境内には,三浦大介義明の孫で,頼朝の挙兵を助け,鎌倉幕府の樹立に功績のあった武将和田義盛が出陣に際し,戦勝を祈願したと伝えられる「和田地蔵」が祀られています。 また,樹齢400年以上のイヌマキとビャクシンの木があり,三浦半島の名木・古木50選に紹介されています。裏山には,義盛の剃刀塚(かみそりづか)や幕末期には江戸湾の防備のために,この地に来た会津藩士の墓11基があり,中には白虎隊士・間瀬源七郎の身内の墓も2基あります。 |
|
「浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から一部引用 | |
本堂・鐘楼とビャクシン |
|
地蔵堂 |
|
和田地蔵尊御詠歌 |
|
庚申塔 |
|
可愛いお地蔵さん |
|
ビャクシン |
|
イヌマキ |
|
イヌマキの虚(うろ) |
|
|
|
「会津藩士の墓」と「和田義盛の剃刀塚」は本堂の裏山にある。本堂左手の鐘楼の前を右折,江戸時代のものと思われる無縁仏が並ぶゆるい坂道を最奥部まで進み,左折して階段を道なりに登っていくと裏山へ通じる道の入口に辿り着く。最近,境内の要所要所に案内板がたてられたので迷うことなく辿り着けるようになったことは喜ばしい。 | |
門前の案内板 |
|
境内・本堂前の案内板 |
|
照葉樹等が鬱蒼として茂る坂道を登ること数分,辿り着いた山頂には11基の会津藩士の墓が,薄暗い林の中に静かに眠っていた。会津藩士の墓から少し離れて,右手奥に和田義盛の剃刀塚らしき盛り土ほどの小山があるが,案内板がないためそれと判るまで時間がかかった。 | |
夏落葉会津藩士の無縁墓 茂夫 |
|
三浦半島会津藩士顕彰会による慰霊法要が, 毎年,西徳寺と能満寺で交互に営まれている。 |
|
和田義盛の剃刀塚 |
|
|
|
次の目的地「能満寺」へは,登ってきた坂道の反対側に近道がある。木の間越しに見える旧上の台中学校を目標に,墓地の左手「会津藩士の墓」の案内板がある方向から坂道を下るとグラウンド前に出る。左折して中学校の塀沿いに歩くこと数分,中学校の校門の斜め向かい側に「能満寺」がある。 | |
「会津藩士の墓」の案内板 |
|
会津藩士の墓
能 満 寺
(鴨居山・曹洞宗)
能満寺は明応6年(1497)の創建といわれています。江戸時代に三浦半島は天領となり,代官が浦賀に赴任した時に,曹洞宗に改宗し現在に至っています。 本尊は虚空蔵菩薩で,胎内には「応永5年」「願主昌悟」と銘文があり横須賀市文化財に指定されています。薬師堂には多光薬師如来が安置され,33年に一度開帳されます。 境内には江戸後期に三浦半島を行脚した木食観正の石塔や会津藩士の墓10基と川越藩士の墓1基があり,参道には江戸中期の庚申塔1基があります。 |
|
「浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から | |
虚空蔵菩薩 |
|
|
|
境内には会津藩士の墓に関する案内板らしきものはなにも存在しない。私はたまたま居合わせたご婦人にお尋ねして,その場所をようやく知ることができたが,六地蔵堂の手前に案内板が一つ欲しいところだ。 会津藩士の墓は本堂の左手,六地蔵堂の奥に,江戸時代のものと思われる沢山の無縁仏と共に,六地蔵堂と隣接する一画に安置されている。 会津藩士の墓は無縁仏として扱われているようだが,会津藩士ゆかりの人々により結成された三浦半島会津藩士顕彰会による慰霊法要が,毎年10月,西徳寺と能満寺で交互に営まれている。 平成16年(2004年)の法要は10月17日に能満寺で営まれ,平成14年の卒塔婆の隣りに,新しい卒塔婆が立てかけられていた。どうやら慰霊法要は,偶数年は能満寺,奇数年は西徳寺で営まれているようだ。 |
|
六地蔵堂の左手奥に会津藩士の墓 |
|
右側の一画が会津藩士の墓 |
|
「丹下」姓のみが川越藩士 |
|
|
|
境内の左手階段を登ると薬師堂があり,多光薬師如来像が安置されている。ご開帳は33年に一度開かれ,前回は昭和59年(1984)にご開帳されたので,次回は平成29年(2017)になるとご住職からうかがった。 この多光薬師は地元では蛸薬師と呼ばれ,眼病の厄除けや豊漁祈願など,古くから信仰を集めていたようだ。次回ご開帳まで12年,その時私は喜寿を迎えることになるが,元気でそのお姿を拝見したいと思う。 |
|
|
|
薬師堂の左手に「木食観正(もくじきかんしょう)」の供養塔が残されている。台座には文政三年二月(1820)とある。「木食」とは米や野菜を絶ち,木の実や果実を食べて修行することで,「観正」はその修行をした木食僧として,小田原を中心に各地の寺をまわり,加持祈祷を行い民衆の悩みを和らげたと聞く。その年,木食観正がこの地に立ち寄ったと思われる。 | |
|
|
次の目的地腰越の「三昧堂(さめど)」へは,入口とは反対側,本堂前の階段を鴨居港方面へ下る。バス通りを左折すること数分で鴨居バス停へ出る。 鴨居バス停からは観音崎方向へ県道209号を歩く。清藤釣具店を過ぎて3〜4分,赤い消火器とゴミ集積用カゴの置いてある小さな橋「腰越谷戸橋」の手前を左折,車が1台やっと通れるほどの道に入る。 分岐点から腰越川のフェンス沿いに2〜3分,「会津藩士の墓」の案内板の先を左折,坂道を少し登ると左手に「会津藩士墓地」が見えてくる。 |
|
会津藩士の墓
三 昧 堂
(横須賀市指定史跡)
地元の人に三昧堂(さめど)と呼ばれる場所には,葬式や死者の冥福を祈るため,経をあげたりするお堂があったと思われますが,現在はお堂らしきものは何も残されていません。会津藩士とその家族の墓が23基残されているだけです。 以前,この墓所は走水の円照寺の所有地でしたが,近年,横須賀市が購入・管理することになり,2005年2月〜3月にかけて整備工事が行われました。白いフェンスに囲まれた墓所内には,真新しい説明板とベンチが据えられ,小さな公園墓地の趣があります。 三昧堂のある腰越は,会津藩が文化八年(1811)に,江戸湾海防のため陣屋を置いた場所で,その敷地は八千百十坪余と記され,家老も常駐していたという記録があります。 この陣屋には,会津藩士の子弟を教育するための「養正館」という藩校までありましたが,陣屋は天保十三年(1842)に川越藩の所管となり,明治二年(1869)に撤去されました。 |
|
「浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から一部引用 | |
墓地には23基の墓が残されていて,その内の20基は上記画面の中におさまっているが,1基はまるで門番でもするように墓地入口,2基は位が高い人なのか?一段高い場所に安置されている。 | |
|
|
|
|
次の目的地,走水の「円照寺」までは,早足に歩けば30分足らずの道のりだが,「観音崎京急ニュータウン団地」を抜けると県立観音崎公園に入る。「花の広場」「走水展望広場」「ふれあいの森」,四季折々の豊かな自然を楽しみながら散策したい。やがて日本武尊・弟橘媛ゆかりの走水神社に到着。走水神社から2〜3分歩くと左側の電柱に「円照寺」の看板が二つ見えてくる。看板の矢印に従い左折すると,円照寺の本堂が直ぐ正面にある | |
会津藩士の墓
円 照 寺
(東向山・日蓮宗)
室町時代初期の応永五年(1398)日海上人によって創建されたお寺で,ご本尊は仏・法・僧の三宝。本堂には,幕末の文政五年(1822)春,走水沖で漁師利兵衛によって引き揚げられた半鐘と写経も祀ってあります。また,墓地には会津藩士の墓5基と川越藩士の墓1基があります。 |
|
|||
2005年6月中旬,円照寺を訪問。本堂に祀ってある銅鐘の拝観をお願いしたところ「銅鐘は厨子に納められ,普段はご開帳していません。8月の施餓鬼会か10月のお会式の時ご開帳するので,その時お出かけ下さい。」とのことであった。 2005年8月11日11時頃,円照寺を再び訪問。施餓鬼会は14時から始まるため,まだ檀徒さんの姿はなかったが,寺務所に銅鐘の拝観をお願いすると,快く本堂へ案内していただけた。 銅鐘はご本尊の右脇,厨子に納められご開帳されていた。元徳弐年(1330年)海中に沈められ,492年後の文政五年(1822年)海中から引き揚げられ,それから183年が過ぎた銅鐘は,流石に腐食が進んでいるが,原形をとどめ歴史の重みを感じさせる。 |
|||
|
|||
会津藩士と川越藩士の墓は,本堂に向かって右手奥,無縁仏と共に安置されているが,境内には案内板らしきものは一切ないので,走水水源地の水源(○)を目印に行くとわかりやすい。 | |||
|
|||
円照寺に隣接する覚栄寺裏山には,横須賀市水道局の管理する水源の一つがある。現在,一日の湧水量は50〜100m3,他の水源を合わせた走水水源地全体では,1日2,000m3の供給能力を持っている。走水水源地は市内唯一の水源地であり,万一の災害時には,応急給水拠点としての機能を備えた貴重な存在です。 この水源の近くにある走水神社の湧水由来には,「この水は,富士山より永い歳月を掛けてこの辺一帯に湧き出ていると云はれております。」と書かれている。真偽のほどは科学的に検証されていないが,水質の良さや関東大震災にも枯れなかった湧水量の豊富さを考え合わせると,「富士山湧水説」にはなかなかの説得力がある。 |
|||
会津藩士の墓
あ と が
き
開国という大きな歴史の流れの中で,江戸湾(東京湾)および三浦半島を守るため,会津藩士が一家を挙げてその居をこの地に移したのが,今から約200年前の文化七年(1810)。200年前と言えば,飛行機は勿論,汽車や自動車のない時代。今私達が想像する以上に,会津と三浦半島の距離は遠く感じられたに違いない。 現代のサラリーマンが海外勤務を命じられ,現地へ赴任する時以上の決意が必要ではなかったかと想像される。その証の一つが会津藩士の墓で,墓地には藩士のみならず,その家族,年老いた親や時には幼い子供の名前を見かける。 墓石には,会津の地への望郷の念,会津人としての誇りを現すかのように,必ず会津に関する文字が刻まれている。「會津之士」「會津臣」「會津士」「會藩士」「會津人」「會津」等がそれだが,不思議なことに「會津藩士」の文字は何処にも見当たらなかった。 現在,腰越の三昧堂にある墓地は横須賀市の指定史跡として,ほぼ原形に近い形で保存されているが,西徳寺・能満寺・円照寺の墓は,元の場所から他の無縁仏と共に墓地の一画に集め祀られている。 これらの会津藩士の墓は,長年訪れる人もなく無縁仏として眠っていたが,会津ゆかりの方々のご尽力により,昭和43年(1968)に「三浦半島会津藩士顕彰会」が結成され,150年ぶりで陽の目を浴び,第一回慰霊法要が営まれた。以来,慰霊法要は毎年西徳寺と能満寺で交互に行われるようになり,今年平成17年は西徳寺で営まれる予定とのことで,当時の会津藩士とその家族の労苦を考えると,なにか救われたような気持ちになる。 |
|
|
2021.11.12発行 タウンニュース・横須賀版から転載 |
|
|
|
横須賀市は2005年4月17日会津若松市と友好都市提携を結びました。 | |
「よこすか市議会だより」No.6から転載 |
会津藩士の墓
案 内 図
会津藩士の墓
NTTドコモ
移動無線基地局
鴨居港付近をバイクで走行中,何気なく西徳寺の裏山を見上げると,山頂付近からモビルクレーンのジブと鉄塔のようなものの先端部がのぞいていた。周辺の木々が伐採されたためか,山頂周辺の森の一部から空が透けて見える。 あの辺りには会津藩士の墓地があった筈?墓地はどうなったのだろう?気になって工事現場へ行ってみた。鴨居交番方面から上の台中学へ通じる百段階段を,時期的には若干早いがナンバンギセルは生えていないだろうか?と,ススキの根の辺りをキョロキョロ眺めながら,汗をかきかきやっとのことで工事現場へたどり着いた。 |
2006.8.6 |
モビルクレーンは墓地から少し離れた空き地に設置されていたが,鉄塔は「会津藩士の墓地」と「和田義盛の剃刀塚」のほぼ中間地点に建てられていた。工事現場のフェンスに掲示されていた「保安林内土地形質変更行為許可票」によれば,注文主は(株)エヌ・ティ・ティ・ドコモ,鉄塔は移動無線基地局とあった。どうやら携帯電話の空白地帯をなくすための鉄塔のようだ。 |
墓地内に入り鉄塔側を見ると,これまで照葉樹の大木に囲まれ昼間でも薄暗かった墓地に,真夏の明るい日差しが差し込み眩しいほどである。墓地に眠る会津藩士とその一族の方々が,百数十年の眠りから覚めてしまうのではと心配されるほどである。墓地周辺で鳴くヒグラシの声が,妙にもの悲しく聞こえたのは気のせいであろうか。 鉄塔の傍のフェンス際まで行き墓地を振り返ると,墓前にコップのようなものが供えられているのに気づいた。良く見るとワンカップの日本酒で,墓地内の墓の全てにそれが供えられていた。恐らく工事関係者の心遣いと思われるが,童子や幼児の墓にも供えられているのが微笑ましかった。 |
これより数ヶ月前,観音崎公園花の広場近くにある防衛大学敷地の一部に,鉄塔のようなものが建った。現地へ行ってみると,鉄塔へ通じる階段の入口付近には,それが何であるかを示すものはなにもなかったが,フェンス内の電柱に取りつけた計器盤に「NTT ドコモ 電力計量器」とあったので,恐らく会津藩士墓地と同じ移動無線基地局と思われる。 |
防衛大学敷地の鉄塔付近から西徳寺裏山付近を眺めると,建設中の鉄塔が指呼の間にある。この二つの鉄塔が建てられたことによって,鴨居周辺から携帯電話の空白地帯が消滅したのだろうか?便利さと引き替えに,日本中のあちこちで,このようにして緑が少しずつ失われているのかもしれない。 世は正に「携帯電話」時代である。次から次へと目新しい機種が発売され目まぐるしいばかりである。電車内で一心不乱に電話と睨めっこ,歩きながらの通話,芸能人を見かけると写メール,極めつけはスーパーで特売品の名前と値段を奥さんへ実況中継等々,人それぞれ様々でなかなか便利な道具のようだ。 因みに私は携帯電話を持っていない。タダでどうかと勧誘されたこともあったが,タダでもお断りした。外で酒を飲む時,何者にも煩わされず酒が飲みたい。ただそれだけの理由である。時代遅れの奴と笑われそうだが,飲仲間の多くが同じ理由で持っていないのでその点心強い。 |
○内が西徳寺裏山の鉄塔 |