庚 申 塔

庚申塔について
(鴨居地域) (走水地域) (東浦賀地域)
小原台路傍 走水神社境内 法幢寺裏山
脇方路傍 覚栄寺領内 東叶神社境内
西徳寺境内 大泉寺境内 顕正寺境内
能満寺参道 伊勢町稲荷社境内 津守稲荷神社境内
亀崎権現社 「庚申待ち」復活
朝日稲荷境内
稲荷神社境内
庚申塔について
 
 私は時々,観音崎公園以外の周辺地域をあてもなく散策?することがある。散策というと格好は良いが,健康維持と好奇心を満足させるのが目的で,自慢にはならないが,二度ほど不審者と間違えられたこともある。

 昨年11月頃,小原台の細道で珍しいものに出会った。豪壮な邸宅の庭の一部に食い込むように,石塔が9基並んで建っている。お地蔵様でもお墓でもないようだ。そばに案内板が立っていたので読むと,庚申塔(こうしんとう)と書かれていた。
2006.2.15
  
 庚申塔(こうしんとう)は村境や三叉路に造立され,悪疫などの侵入を防ぐと信じられていました。中国の道教に由来する庚申信仰は,わが国では,室町時代にはじまり江戸時代には隆盛をきわめました。「庚申縁起」によれば,六十日ごとにまわってくる庚申の夜,人の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に昇ってその人の罪禍を天帝に告げるため生命を縮められるといわれました。人々は「講」を結んで,その夜は眠らず身を慎んで過ごし,延命招福を祈念しました。
「浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から
 私はそれまで恥ずかしながら,庚申信仰についての知識を持ち合わせていなかった。以来,庚申塔に興味を持ちあれこれ調べている内,鴨居・小原台地域には庚申塔が6ヶ所,合計20基残存することが判った。一番古いもので享保二年(1717年),新しいものは明治七年(1874年)に造立されているが,明治七年の1基を除くと,残り19基は江戸時代中期に造立されている。一部風化して年号が判読できないものもあるが,おそらく同時代のものと思われる。

 江戸時代に隆盛をきわめた庚申信仰も,明治時代になると政府はこれを迷信として,庚申塔の撤去を勧めた。撤去を免れたものも,その後の道路の整備工事や宅地開発等によって,撤去や移転を余儀なくさせられた。鴨居・小原台地域に残存する庚申塔の殆どが,もともとあった場所から現在の場所に移転されたものと思われる。

 庚申塔には,病魔を追い払ってくれるとされる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれている。6本の腕のそれぞれの手には,三叉戟(さんさげき)と呼ばれる三又の矛や法輪・剣・弓等を持ち,邪鬼を踏みつけ,足下には三猿が刻まれている。
青面金剛刻像塔の各部名称
 

「浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から
  

西徳寺境内の青面金剛刻像塔
 庚申塔の標準的な形は上記の通りで,鴨居・小原台地域に残存する20基の内18基はほぼこの形だが,例外が2基ある。脇方の路傍と西徳寺の境内にある庚申塔には,青面金剛刻像の代わりに,「青面金剛」と単に文字だけが刻まれている。脇方の路傍のもの(明治七年造立)には下部に三猿が描かれているが,西徳寺の境内のもの(文政六年造立)にはそれすら見当たらないシンプルなものだ。
   

脇方路傍の文字と三猿の青面金剛
(鴨居地域)
    
庚申塔マップ−1 (鴨居・小原台地域)
  
小原台路傍(小原台43)
  
 久しぶりに庚申塔の前を通ると庚申塔が消滅していた。そこには立て看板があり,新しい設置場所の地図が書いてあった。早速,地図に従い行ってみると約10分足らずで新しい設置場所に着いた。

 何時,どのような理由で移転したのかは定かでないが,設置場所のコンクリートが真新しいところから比較的最近移転したと思われる。古ぼけた庚申塔と真新しいコンクリート,何処かちぐはぐな感じは拭えないが,いずれ時の経過が解決してくれるのだろう。
2015.2.20
 
新・設置場所
 
 写真を撮り帰宅後,旧設置場所当時と比較してみたところ,9基の庚申塔が以前と全く同じ配列で設置されていることがわかり,細かい配慮がうかがわれ,少しほっとした。
 
旧・設置場所
 
 ここは私が初めて庚申塔の存在を知った場所だが,鴨居・小原台地域に残存する庚申塔の中で,一番恵まれた状況にある。豪壮な邸宅の持ち主は,庚申塔の存在を尊重して塀を巡らし,9基ある庚申塔のそれぞれに新鮮な樒(しきみ)が供えられている。邸宅の持ち主の優しい心遣いが感じられ,余所者の私も何故か嬉しくなる。庚申塔の置かれている土台の石垣等の状況から推測すると,ここは江戸時代から存在する庚申塚と考えられるが,真偽のほどは定かではない。
 
 
造 立 年
  年  号 西  暦 十干・十二支
@ 享保二年 1717 丁酉
A 寛延元年 1748 戊辰
B 安永八年 1779 己亥
C 文化十年 1813 癸酉
D 寛政元年 1789 己酉
E 宝暦五年 1755 己亥
F 寛政九年 1797 丁巳
G 天保三年 1832 壬辰
H
  
  
     
脇方路傍(鴨居2−28)
   
 鴨居港の外れ,かもめ団地寄りの集落を地元では「脇方」と呼ぶ。その脇方から臨海団地へ通じる細道の途中,山際の路傍に庚申塔が4基ある。その内3基には青面金剛像が彫られているが,1基には「青面金剛」の文字と「三猿」が彫られているだけである。

 この4基には,それぞれ,ようやく花盛りを迎えたスイセンが供えられていたが,4基の中央に真新しいステンレス製のカギ付き賽銭箱?が設置されていた。石塔の前にはスイセンと並んで,お酒のようなものが供えられていたので,賽銭箱の浄財はそれらの購入費にでも充てるのだろうか。
 
  
 
造 立 年 (左から)
年  号 西  暦 十干・十二支
明治七年 1874 甲戌
宝暦十一年 1761 辛巳
寛政十年 1798 戊午
宝暦十二年 1762 壬午
西徳寺境内(鴨居2−20)
   
 西徳寺の階段を上がって直ぐ右側,和田地蔵を祀ってあるお堂の右手に7基の石塔が並んでいる。その内の右側2基が庚申塔で,その他の5基は何かの供養塔のようだ。

 右端の庚申塔は典型的な江戸時代中期の庚申塔だが,左側のものは文政六年(1823)に造立されているにも関わらず,「青面金剛」の文字だけで三猿も彫られていない。また,造立年も普通は右か左側面に彫られているが,この塔だけ背面に彫られている。この時代のものとしては異色の存在だ。
 
  
  
造  立  年
年  号 西  暦 十干・十二支
(右) 宝暦十四年 1764 甲申
(左) 文政六年 1823 癸未
 
能満寺参道(鴨居2−24)
   
 能満寺へ通じる細い参道に庚申塔が1基,ポツンと取り残されたように佇んでいる。周辺は物置場のようになっていて,宗教的な雰囲気は全く感じられないが,誰があげたか,菊が供えられていた。土台の石には,姓は無く,「孫七」「定吉」「兵助」等々いかにも江戸時代の庶民を代表するような名前が刻まれていた。
 
  
造  立  年
年  号 西  暦 十干・十二支
安永二年 1773 癸巳
亀崎権現社(鴨居3−12)
   
 鴨居港側の通称「東(ひがし)」と呼ばれる集落から,腰越にぬける切り通し脇の中腹に「亀崎権現社」があり,その左側に庚申塔が2基祀られている。土砂崩れ等によって,半ば埋もれかけた状態にあるため,造立年等は確認できないが,遠藤茂氏著「横須賀の庚申塔」によれば,左側の「合掌六手像」の造立年は享保六辛丑年(1721年)とある。
 
  
 
造  立  年
  年  号 西  暦 十干・十二支
(右) 享保六年 1721 辛丑
(左)
朝日稲荷境内(鴨居4−1313)
   
 観音崎バス停の周辺には通称「三軒谷」と呼ばれる集落がある。その集落を見下ろす高台には朝日稲荷があり,その片隅に庚申塔が2基祀られている。その内の1基は風化して造立年が判読できないが,笠付型であることから,江戸時代中期のものと思われる。2基のいずれもどこか別の場所にあったものが,何らかの事情で,この場所へ移設されたようだ。
 
 
  
  
造  立  年
  年  号 西  暦 十干・十二支
(右) 延享元年 1744 甲子
(左)
  
庚申塔マップ−2 (三軒谷地域)
 
稲荷神社境内(鴨居1−31)
   
 ここには異色の庚申塔がある。神社の鳥居の右手に5基の石塔が並んでいるが,造立は明治時代から大正時代にかけてのもので,江戸時代のものは一つもない。石塔には「猿田彦大神」と刻まれ「青面金剛」ではない。

 「猿田彦大神」と「青面金剛」どこがどう違うのか?いささか戸惑ったが,庚申信仰にも神道系と仏教系があるようだ。神道系では庚申の祭神が「猿田彦大神」であり,仏教系では庚申の本尊は「青面金剛」とされるため,このような違いが生じるようだ。神仏混淆の典型的な例と言える。

 この神社の周辺地域には,江戸時代の庚申塔が残存しない。何故ここだけに,明治から大正にかけての神道系の庚申塔が存在するのか?明治新政府の行った「廃仏毀釈」運動と関係があるように思える。この周辺の人々は,政府の呼び掛けに応じて江戸時代の庚申塔を破壊,その代わりに神道系の庚申塔を造立したのではないだろうか?

 「猿田彦大神」の石塔と並んで,石像が1基祀られている。最初はこれが「猿田彦大神」かと思ったが,お姿をよくよく拝見するとどうもおかしい?どう見ても「不動明王」のようだ。「不動明王」と言えば仏教の信仰対象で仏様。神社に神様と並んで仏様を祀るとはこれこそ神仏混淆と言うことになるが,野暮な追求は止めておこう。

 私は例年初詣に行くが,元旦には地元の鴨居八幡神社へ行き,三日か四日には川崎大師・平間寺へ行くのを恒例としている。我が家には仏壇も神棚もある。彼岸と盆暮れには菩提寺へ行き,夏祭りには鴨居八幡神社は勿論,走水神社や浦賀の叶神社へも出かける。バレンタインデーには密かにチョコレートを期待し,クリスマスにはケーキを買い求め,クラッカーを鳴らし,シャンパンで乾杯する。神仏混淆もここまで来ると我ながら救いがたい。 
 
  
  

「猿田彦大神」の文字の下に三猿が刻まれている
  

不動明王?
 
造 立 年 (左から)
年  号 西  暦 十干・十二支
不動明王?
明治三十二年 1899 己亥
明治十五年 1882 壬午
明治四十年 1907 丁未
明治二十二年 1889 己丑
大正四年 1915 乙卯
(走水地域)
 
走水神社境内
   
 このページを作成するに当たり,走水地域にも庚申塔は当然のことながら残存するものと考えていたが,不思議なことに何処にも見当たらない。うろ覚えで庚申塔らしきものがあると思われる場所へ出かけてみると,それはお地蔵様だった。

 それ程広くはない走水地域を,バイクで走り回ってみたものの庚申塔は見当たらず,あきらめかけた時,走水神社本殿の脇に稲荷大明神があることを思い出した。「朝日稲荷」や「稲荷神社」に庚申塔が祀られていたように,走水の稲荷大明神にも庚申塔が残存するかもしれない。

 走水神社本殿へ上がる急勾配の石段を,ヤットコサットコ駆け上がり,稲荷大明神へ直行したが,庚申塔らしきものは見当たらない。ところが,柵の外に妙なものがあるのに気づいた。
2006.2.15
 
  
 何か石塔の残骸のようだが,刻像や文字が彫られていたと思われる部分は,ノミのようなもので削り取られたあとがあり,それが何であるかを物語るようなものが何も残っていない。高さはまちまちで,笠がついているものの,鴨居・小原台地域の庚申塔の笠とは形が異なっている。

 稲荷大明神の付属塔とも考えられるが,それならば石の表面を削り取ったり,柵外に置いたりすることもないと思われる。これは私の推測だが,明治政府が行った神仏分離政策や廃仏毀釈運動と密接な関連があると思われる。走水神社は日本武尊と弟橘姫を祀る由緒ある神社で,明治政府との結びつきも深い。その影響もあって,走水地域では激しい廃仏毀釈が行われたことが考えられる。
 
 稲荷大明神からの帰途,近くにあるお地蔵様のことが気になり,岩穴の一部をくりぬいて造った地蔵堂に立ち寄ってみた。改めてお地蔵様を眺めてみると,二体のお地蔵様の首の当たりに白い部分がある。最初はよだれかけのようなものかと思ったが,良く見ると,一度切り離された?首を,その後,セメントで修復した跡のように見える。

 庚申塔?らしき残骸や首筋に白い跡が残るお地蔵様を眺めていると,明治初期の廃仏毀釈運動の凄まじさが甦ってくる。その一方,庚申塔やお地蔵様に,今も絶えることなく供えられている樒や花,お供物等を眺めていると,民間信仰の根強さを垣間見たような気がする。 
  
  
 2006年2月,鴨居・走水地域の庚申塔について調べた時,走水地域に庚申塔は見あたらず,私は明治初期の廃仏毀釈により消滅したものと思いこんでいた。ところが「弟橘媛」について資料を集めている過程で,走水にも覚栄寺・大泉寺・伊勢町稲荷社の境内三ヶ所に,庚申塔が現在も残されていることを知った。
2006.12.27
 
庚申塔マップ−3 (走水地域)
  
覚栄寺領内(走水2-8-1)
   
 走水神社にほど近い,覚栄寺領内の「滝の井戸」に隣接する柏木氏宅の脇に14基の庚申塔群がある。「滝の井戸」方面から庚申塔群のある崖下へ行くには,柏木氏宅の庭先を通り抜けることになるが,その敷地も覚栄寺所有地なので,付近の住民の方も通路として利用させていただいているようだ。
  
  
庚申塔群は柏木氏宅より一段高い崖下にある。6年ほど前,崖の崩落防止工事を施工した際,庚申塔群も整理されと聞いた。14基を横一列に並べ,その中央部に背の高い立派な庚申塔を据えてある。14基の庚申塔の下部は,全てコンクリートで固定されているが,背の高いものを除いた13基は全て台石が無い。

 14基ある庚申塔の中で一番古いのは,中央部に据えた背の高い庚申塔で,造立年は寛文十三年(1673)とあり,鴨居・走水地域では最古のものになる。その他の造立年は,1700年代が2基,1800年代が11基で,鴨居地域のものに比べて1700年代のものが異常に少ない。また,刻像塔は両端の2基だけで,文字塔が多いと感じた。 
  
 
 
造 立 年 (左から)
No. 年  号 西  暦 十干・十二支
@ 安永九年 1780 庚子
A 文化七年 1810 庚午
B 文政九年 1826 丙戌
C 天保五年 1834 甲午
D 天保七年 1836 丙申
E 天保十四年 1843 癸卯
F 安政七年 1860 庚申
G 寛文十三年 1673 癸丑
H 弘化三年 1846 丙午
I 明治廿九年 1896 丙申
J 弘化二年 1845 乙巳
K 寛政八年 1796 丙辰
L 明治十七年 1884 甲申
M 万延元年 1860 庚申
 
  
 
  
 
「山王信仰」と「庚申信仰」
 
 中央部に据えられた庚申塔は,背が高く造立年が古いだけでなく,形・文字・絵柄等が他の庚申塔とは大きく異なっている。他と共通しているのは「三猿」だけと言える。「青面金剛」の刻像や文字,「庚申塔」「庚申供養塔」「庚申塚」等の文字も見当たらない。その代わり,上部に月・日・瑞雲,中央部左右に造立年月日,中央に「南無山王二十一社」,基部に蓮の花と葉が彫られている。
 
私はこの塔を眺めていて,碑の中央部に刻まれた「南無山王二十一社」という文字が妙に気になった。これまで調べた鴨居・走水地域の庚申塔の中で,この文字が刻まれているのはこれだけである。試しに「山王二十一社」をキーワードにウエブ検索したところ,いろいろ興味深いことが浮かび上がり,これらを要約すると次のようなことが判ってきた。

1.庚申塔の形
 板碑型と呼ばれるタイプで,正面が平,背面が船底形,上部に額部があり,中央は彫りくぼめ,下部に前出がある。江戸時代の庚申塔としてはもっとも古い部類に属する。上記写真の庚申塔はこれらの特徴を全て備えている。

2.山王二十一社
 比叡山の山王総本宮日吉大社の上七社・中七社・下七社の総称で,上七社とは,比叡山に鎮座する延暦寺の守護神, 大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禪師・三宮の七社。中七社とは大行事・牛御子・新行事・下八王子・早尾・王子宮・聖女の七社。下七社とは,小禪師・大宮竃殿・二宮竃殿・山末・巖瀧・金劍宮・気比の七社をいう。尚,比叡山には延暦寺という名の建物はなく,比叡山そのものが延暦寺を表わし,その寺域は広大で,比叡山の山中には数百の建物がある。

3.山王信仰
 山王総本宮日吉大社に対する信仰で,その起源は比叡山一帯に古くからあった山岳信仰である。平安時代になって最澄が延暦寺を建立,山麓の日吉の神々を延暦寺の守護神として尊重し「山王」と呼んだ。これ以後,日吉大社は仏教風に「山王権現」「日吉山王」とも呼ばれるようになった。山王信仰の特徴にひとつに,猿が神の使いとされることが知られている。比叡山土着の古い信仰において,その山に棲息する猿を神の使いとしていたのかもしれない。

4.山王信仰と庚申信仰
 山王信仰の起源は古く平安時代にさかのぼるが,庚申信仰は室町時代後期より民間で広まり始め,江戸時代中期に隆盛を極めた。庚申塔には三猿が描かれていることが多いが,これは「庚申」の「申」が猿を意味するという単純な理由からで,猿を神の使いとする日吉大社の「山王権現」と結びついたと思われる。

5.織田信長の比叡山焼き討ち
 比叡山延暦寺の強大な力を恐れた信長が,元亀2年(1571)全山を焼き討ちにし,比叡山は山王二十一社を含む大半の建物を焼失,数千人の僧侶や女子供までもが殺害された。現在の建物は,後に秀吉,家康により再建されたものである。

(まとめ)
 いささか話がややこしくなったが,以上のことを総合すると,「南無山王二十一社」と刻まれたこの塔は,山王権現に帰命・帰依する,平たく言えば感謝・尊敬をあらわすもので,山王信仰を象徴している。ところが,碑の下部には庚申信仰の象徴とも言える「三猿」が浮き彫りにされていることから,この塔は山王信仰と庚申信仰が結びついたものと考えるのが相応しいようだ。

 この塔が造立された寛文十三年(1673)は,信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年(1571)から数えて約100年後,殺害された人々や焼失した寺社・仏像・神像等を追悼・供養する意味合いも含まれた塔なのかもしれない。

 横須賀市の東部地域(鴨居・小原台・走水・浦賀・馬堀・大津他)には34ヶ所の庚申塚があり,合計305基の庚申塔が現存するが,この塔と同じようなものは馬堀の貞昌寺に1基あるだけで,他には見あたらない。比較的珍しい庚申塔ではあるが,全国的には少なからず現存するようだ。
 (参考サイト)「庚申塔物語」
 
台石は何処に?
 
 背の高い塔の左右に並ぶ庚申塔13基には台石が無い。何故台石がないのか?私なりに原因を推測してみた。

1.廃仏毀釈された時に散逸した。
2.廃仏毀釈の嵐が過ぎ去り,塔復元の際,講中のメンバーの名前が判る台石部分は,後難を恐れ復元しなかった。
3.不心得者に持ち去られないよう台石部分を外し,コンクリートで固定。

 台石の無い庚申塔を眺め,あれこれ考えながら辺りを見回していると,片隅に数個の石が積み上げられているのが目についた。丁度,台石に相当するくらいの形,大きさをしている。ヒョッとして台石では?

 その中で,一番それらしき形をした長方体の石の表面を調べてみたが,台石らしき特徴は見つからない。念のため石を裏返してみると,予感が的中,文字らしきものが刻まれていた。泥を払いのけ,目を近づけてみると,左端に「新助」,一つおいた右には「彦兵衛」の文字も読み取れる。私の直感通りその石は台石だったのだ。
 
 
 一つでも台石がそこにあることは,他にもある証拠では?改めて庚申塔群のある場所の周辺を調べてみると,驚くべきことが判った。私が上り下りした階段や石垣の全てが石塔のようなのだ。
 
 一瞬,これら石垣の全てが庚申塔か?と思い,石と石との隙間からのぞき込んでみたが,大半の石塔は文字や刻像が読み取れない。一部「信士」「信女」と刻まれた文字が目についたので,どうやらこれらの石塔の大半は古い時代の墓石らしい。庚申塔らしき特徴のあるものは残念ながら確認できなかった。

 帰途,覚栄寺の寺務所に立ち寄り,ご住職にこのことをお尋ねしたが,先代没後,10数年前,こちらのご住職になられた由で,詳しいことは判らないとのご返事だった。 
 
 
大泉寺境内(走水2-11-13)
   
 走水神社に隣接する大泉寺には,境内に入って直ぐの右側に6基の庚申塔が並んでいる。以前は本堂の裏手にある墓地の最奥部付近にあったようだが,墓地の拡大,整理に伴い,6〜7年前,現在の場所へ移設したと聞いた。
 
 
造 立 年
No. 年  号 西  暦 十干・十二支
@ 享保十三年 1728 戊申
A 安永九年 1780 庚子
B 安永八年 1779 己亥
C 寛政九年 1797 丁巳
D 文政六年 1823 癸未
E 万延元年 1860 庚申
 

 
 
伊勢町稲荷社境内(走水1−2)
   
 伊勢町バス停から国道16号沿いに走水小学校バス停方面へしばらく歩くと,右手に階段があり,その中腹に赤い鳥居が見える。その鳥居から30mほど登った場所に伊勢町稲荷社と庚申塔群があるが,周辺は草木に覆われ,昼間でも薄暗く,普段,人が訪れている気配は感じられない。

 庚申塔群の現在ある場所や配置から推測すると,これらはもともとこの場所にあったのではなく,明治初期の廃仏毀釈運動によって廃棄されたものを寄せ集め,運動が終息後,復元したものと思われる。
 
 
 
造 立 年 (左から)
No. 年  号 西  暦 十干・十二支
横一列目
@
A
B 弘化四年 1847 丁未
C 享和元年 1801 辛酉
D 万延元年 1860 庚申
E 延享四年 1747 丁卯
横二列目
F 文政五年 1822 壬午
G 天明三年 1783 癸卯
H 文化十年 1813 癸酉
横三列目
I 天保六年 1835 乙未
J 安永九年 1780 庚子
K 天保十三年 1842 壬寅
L 文政八年 1825 乙酉
M
N 安永三年 1774 甲午
  

横一列目左側
  

横一列目右側
  

横二・三列目左側
 

横三列目右側
(東浦賀地域)
 
 東浦賀・明神山山中で,人々から忘れ去られ,訪れる人もなく,そこに長い歳月ひっそりと佇んでいた庚申塔群を偶然発見した。山とは言いながら明神山は周辺を寺社や住宅に囲まれた標高約50〜55mの低山。さかなクンのクニマス発見の快挙には足元にも及ばないが,私にとっては現代の奇跡と言っても過言ではない。これを機会に,東浦賀に散在する庚申塔を訪ねてみた。
2011.2.24
 
庚申塔マップ−4 (東浦賀地域)
 
法幢寺裏山(東浦賀2−16)
   
 2011.1.19新しい散策ルートを開拓しょうと,東叶神社裏山の明神山のけもの道を辿って行ったところ,最近では歩く人もいないのか,途中でその道も消え,少々心細くなりかけたところ,突然,目の前に石塔群があらわれた。
 
 
 最初は墓地かと思ったが,よく見ると庚申塔だった。石塔は全部で9基。「庚申塚」と書かれた石塔には,天保六年未年と刻まれていたが,全てが同じ年の造立ではなさそうだ。石塔の前後左右を調べて,造立年が判明したのは4基。残り5基は造立年が刻まれていなかったり,風化が進んでいたりで判読できなかった。
 
 
造 立 年
  年  号 西  暦 十干・十二支
@
A
B 安政四年 1857 丁巳
C 萬延元年 1860 庚申
D
E
F 天保四年 1833 癸巳
G
H 天保六年 1835 乙未
 
 

  B
 

  C
 

  D
 
 

  G
 

H
  
 写真撮影後,庚申塔群のある位置を確認するため,木の間越しに見える浦賀港を目標に,滑り降りるようにして急斜面を下ること数分。ようやく寺の墓地にたどり着き,境内にあった浦賀探訪くらぶの案内板から,そこが法幢寺であることが判った。どうやら,庚申塔群は法幢寺の裏山にあるようだ。
 
 帰宅後,昭和60年に自費出版された遠藤茂氏の「横須賀の庚申塔」で調べてみたが,この庚申塔群に関しての記述は何もなかった。新発見か?と思いながらも疑心暗鬼。更に,横須賀を中心に三浦半島各地の庚申塔を探訪されている鈴木恒平氏のサイト「庚申塔探訪」にアクセスしてみたが,そこにも紹介されていなかった。

 後日,法幢寺を訪れご住職にお会いしてお尋ねしたところ,その場所は確かに法幢寺の土地ではあるが,庚申塔群の存在は全くご存知ないとのことであった。法幢寺の山号は「円城寺」。後北条氏の時代,裏山付近に浦賀城があったことに由来する。また,古い記録によれば薬師堂があった場所らしいことも判った。そのお堂に祀られていた薬師如来は現在,眷属の12神將とともに法幢寺本堂に安置されているという。

 何故ここに庚申塔群があり,忘れ去られてしまったのだろうか?

 これは私の推測ではあるが,明治政府が行った神仏分離政策や廃仏毀釈運動と密接な関連があると思われる。路傍等に祀られていたこれらの庚申塔を,お役人に廃棄されることを恐れた村人達が,密かにここへ運び込んだが,時の経過と共にそれを知る人も絶え,現在に至ったのではなかろうか?

 ご住職のご了解を得て,この庚申塔群の存在を本サイトで公表させて頂くことにしたが,現在は,そこへ通じる道がない。法幢寺の裏山とは言いながら,寺からそこへ行くには危険な急斜面を登らねばならない。東叶神社側から行くのが比較的安全ではあるが,途中で道は消えて迷う心配がある。

 いずれにしても,今はそこへ行くことをお勧めできないが,近い将来,法幢寺・東叶神社・浦賀探訪くらぶ等のご協力を得て,庚申塔群に通じるルートを開拓。民間信仰を国家権力から守ろうとした,先人の苦労の一端を偲んで頂けるようになればと夢見ている。
東叶神社境内(東浦賀2−21)
   
 東叶神社には,本殿右奥の崖下に庚申塔が1基残されている。青面金剛像は風化が進んでいるが,造立年は嘉永七甲寅年(1854年)とハッキリ刻まれていた。
 
 
 
顕正寺境内(東浦賀2−1)
   
 顕正寺の正門から本堂へ通じる参道の半ば,右側に6基の庚申塔が並んでいる.。自然石に「猿田彦大神」と刻まれたものと,左手に長い髪のショケラ(女性)をぶら下げている正面金剛刻像がユニークで興味深い。
   
  
 
造 立 年
  年  号 西  暦 十干・十二支
@ 嘉永元年 1848 戌申
A 明治四十一年 1908 戌申
B 天保十年 1839 己亥
C
D 天保十二年 1841 辛丑
E 明治五年 1872 壬申
 

   @
 
  
 
津守稲荷神社境内(東浦賀1−14)
   
 県道209号から八雲神社へ通じる露地を入って直ぐ左手の小高い場所に,巨大マンション「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」を背に,津守稲荷神社は建っている。階段を登り,鳥居をくぐると,社殿右側の普段は草むらと思われる場所に青面金剛塔が1基。造立年は寛政三辛亥年(1791)とあり,約220年経過している割りには,風化が進んでいないのが印象的。その右脇に石塔の台座らしきものが転がっていたが,その主らしきものは,その周辺には見当たらなかった。
 
 





「庚申待ち」復活!
  
クリスマスやハロウィンも良いけれど?こんな夜の集いも粋ですね!
  


観音崎のあれこれTOP  HOME