叶 神 社


 浦賀地区には浦賀港の両岸に二つの叶神社がある。正式名称はどちらも叶神社だが,地元では区別するため西岸の神社を西叶神社,東岸の神社東叶神社と呼んでいる。御祭神はどちらも第15代応神天皇の譽田別尊(ほむたわけのみこと)。「叶神社」この縁起のよい名を持つ神社は,日本中を探しても,横須賀の浦賀にしかないようです。
(西)叶神社 (東)叶神社
本殿大改修終了! 明神山と社叢林
社殿彫刻 蘇 鉄
漆喰鏝絵 恵仁志坂と産霊坂
明治天皇駐輦跡 狛 犬
狛 犬 浦賀城址
大灯籠 勝海舟断食の跡
水屋の漱盤 身代わり弁天
文覚畑 芭蕉句碑
合祀神社等 例 祭
例 祭    
酉の市   
絵馬とお守り

(西) 叶 神 社
神奈川県横須賀市西浦賀1-1-13
 
 社伝によれば,叶大明神は,平家の横暴ぶりを憤った京都神護寺の僧・文覚上人が,上総の国(千葉県)鹿野山にこもり,はるかに山城国(京都府)石清水八幡宮に源氏の再興を願い,養和元年(1181)にそのみ霊をこの地に迎えて祭ったことに始まるとされている。

 その後,文治2年(1186)壇ノ浦の戦いで,平家が破れ源氏の世になると,文覚上人の願望が見事叶ったことから,「叶大明神」の称号が与えられたと伝えられている。現在の社殿は,天保8年(1837)に焼失した社殿を,天保13年(1842)に再建したもので,要した費用は
約三千両と記録されている。

 尚,西叶神社(https://kanoujinjya.jp/)の神職は,走水神社(横須賀市走水),若宮神社(横須賀市久比里),安房口神社(横須賀市吉井)の神職も兼務されていますが,東叶神社は別の神職が務められています。
2010.3.12
   
 
 

参道と塩蔵(右側建物)
 
 
 
社殿の大改修
 
2016.6.14読売新聞・朝刊
  
大改修終了!
  
2020.12.11発行 タウンニュース横須賀版から転載
  
  
 
  

社殿彫刻
 
 西叶神社の社殿には,虹梁(こうりょう),欄間,拝殿天井などに総数230を超す,沢山の彫刻が施されています。これらは,社殿が再建された時,のちに名工とうたわれ,幕府の彫刻師として雇われた安房国千倉(千葉県)の彫工・後藤利兵衛によって制作された。

 彫刻に要した費用は総建築費の約七分の一にものぼる四百十一両余。当時は奉行所が置かれ,廻船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからこそできたことと思われる。龍や花鳥草木等の優れたこれらの作品は,横須賀市の市民文化資産に指定されています。
 

拝殿正面
 

拝殿左
  

拝殿右
 

拝殿天井
 

本殿右・棟木を支える力士像
 

本殿左・棟木を支える力士像
漆喰鏝絵
 
 現在の社務所は,大正12年(1923)に発生した関東大震災の後,建てられたもので,それほど珍しい建物ではないが,玄関上部の壁画のようなものが異彩を放っている。これは漆喰鏝絵(しっくいこてえ)と呼ばれるもので,腕の良い左官職人が,鏝(こて)で漆喰を何度も塗り重ね盛り上げて,まるで彫刻のように浮き彫りにしたもの。

 社務所の漆喰鏝絵の作者は,浦賀・川間の住人石川善吉。漆喰鏝絵と言えば伊豆の長八が有名で,生地の松崎には長八美術館まであるが,石川善吉は三浦の善吉と呼ばれ,長八に勝るとも劣らない腕前の持ち主だった。

 浦賀は幕末から明治にかけて,廻船問屋が多く商人の町として栄え,土蔵造りが盛んで,腕の良い左官職人も多かった。その一人が石川善吉。昭和20年(1945)93歳で亡くなっているので,社務所の作品は70歳頃のものと思われる。浦賀周辺の神社仏閣には,石川善吉等の漆喰鏝絵が今でもいくつか残されています。 
   
 
 社務所の巫女さんに画題をお尋ねしたところ不明だったが,鏝絵は,「木に登り,誤って大きな水瓶に落ちた童子を,近くにいた童子が機転を利かし,石で水瓶を割って助け出した一瞬の出来事を表現している。」とのこと。
 
 
明治天皇駐輦跡
 
 社殿の右手下に明治天皇駐輦跡(ちゅうれんあと)がある。これは,明治14年(1881)に明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際,当時この場所にあった浦賀西岸学校の二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑。
 
狛 犬
 
 西叶神社の狛犬は左右どちらも口を開けた阿行(あぎょう)の形をしている。普通は片方が口を閉じた吽行(うんぎょう)の形をしていて,阿吽(あうん)で対になっているが,ここの狛犬は東西の叶神社で対になっているので,西では阿行のみになっている。
 
大灯籠
 
 社殿の石段下には,銅製の大きな灯籠が一対ある。台石の部分には「新地町」と刻まれており,台石の上の灯籠下部には福本,江戸屋,亀屋,屋,玉泉屋,和泉屋の寄進者の名がある。

 新地とは新しく拓かれた土地のことを指すが,遊郭の多い場所を指すこともあるので,この灯籠は浦賀の遊郭からの寄進であることがわかる。寄進は天保4年(1833)と刻まれているので,旧社殿が焼失する四年前に寄進されたことになる。
 
 
 
水屋の漱盤
 
 参拝客がお参り前に手を清める水屋にある石の漱盤(そうばん)にも遊郭の主人・江戸屋半五郎の名が刻まれている。寄進は寛政元年(1789)と刻まれているので,大灯籠より44年前に寄進されたことになる。

 半五郎は後に,世の無常を感じてか,突然,全ての財産を処分して,遊女達に分け与え解放。自らは京都青龍寺で得度。生き仏と言われた徳本上人の弟子となり仏門に帰依。深本(深心)と名乗り,全国を行脚したことで知られています。 
 
 
文覚畑
 
 社殿の裏山(浦賀丘3丁目)には,文覚上人の庵室の跡と伝えられ「文覚畑」と呼ばれているところがある。文覚畑へは,社殿右奥の階段から,金昆羅大権現を経て,けもの道のような細い道を歩くこと5〜6分でたどり着けるが,そこには 「文覚上人の庵跡」の碑があるだけで,庵跡と思われる辺りは東福寺の墓地になっていた。そして,碑の背後には新興住宅地が広がっていた。
 
 

金昆羅大権現
   

文覚上人の庵跡」の碑
合祀神社等
 
社殿の右側奥には,四社神社や辨財天が合祀されている。
 
 

左から稲荷神社・三峰神社・大鷲神社・淡島神社
 

福寿辨財
例 祭
 
 叶神社の例祭は,毎年9月の第2日曜日,東西同時に行われる。西叶神社前の参道両側には,巨大な幟旗(のぼりばた)が立てられ,神社前を通る細い道路の両側には様々な屋台が出店して混雑する。

 神輿や山車も数多く,先導役の若い女性の衣装も華やかだ。中には纏(まとい)に続き,木遣りを唄いながら神輿を先導する粋な町内もあり,浦賀駅の周辺はそれを見物する人々で溢れ,昔の繁栄を彷彿とさせる賑わいを見せる。
 
 
 
 
 
 
  
 
酉の市
 
 西叶神社では毎年12月13日酉の市が開催される。実際は社殿右側奥にある合祀四社の一つ大鷲神社(おおとりじんじゃ)の例祭。酉の市は普通11月の酉の日に行われるようだが,当社では酉の日や曜日に関係なく毎年12月13日に定められている。主に客商売の開運の神として信仰され,市では縁起物の熊手やダルマなどが売られている。

 私は初めて大鷲神社の酉の市に参拝したが,9月に開催される西叶神社の祭礼に比べて数が少ないものの,神社前の道路に屋台が約20軒,境内に熊手売り2店,ダルマ売り1店が出店してるのには驚かされた。この日は生憎の雨模様が影響してか,参拝客が少なく寂しさは否めなかったが,好天ならばさぞ賑わうことだろう。

 帰宅後,何故?酉の市が一般的な11月の酉の日ではなくて12月13日に定められているのか気にかかり,電話で宮司さんにお尋ねしたところ下記のようなご返事を戴いた。

 「江戸時代中期まで使われていた宣明暦(せんみょうれき)では,旧暦の12月13日の二十八宿は必ず「鬼」になっており,鬼の日は婚礼以外は全てのことに吉とされています。また,正月を迎える準備を始める日であり,新年の御札,干支土鈴等の授与を始めます。浦賀では昔から,13日を正月事始めとして酉の市を開催しています。」
2015.12.3
 
(東) 叶 神 社
神奈川県横須賀市東浦賀2-21-25
 
 由緒と御祭神は西叶神社と同じだが,正保元年(1644)に西浦賀の本社(西叶神社)の御祭神を分霊して祀ったと伝えられている。また,別の言い伝えによれば,元禄5年(1692)に浦賀村が東と西に別れた時,西浦賀村の叶神社を遷して祀り,西の叶神社を本宮,東の叶神社を若宮と呼んだとも言われてる。いずれにしても,平たく言えば本家と分家のような関係にあるようだ。

 現在の社殿は関東大震災の後,昭和4年(1929)に竣工したもので,西叶神社のような豪華な彫刻の類は見あたらず,比較的簡素なものになっている。また,社殿正面の額は,西叶神社のものが「叶大明神」とあるのに対して,東叶神社のものは「叶神社」とある。ここら辺りが本家と分家の違いなのだろうか? 尚,東叶神社の神職は鴨居・八幡神社の神職も兼務されています。 
 
 
 
  
 
明神山と社叢林
 
 神社の裏山を明神山と呼び,標高は53m。山頂まで見事な海岸性常緑広葉樹林で被われている。木々の種類は観音崎とほぼ同じだが,備長炭の原料として知られているウバメガシが自生していることが特筆される。

 鬱蒼と木々の生い茂る緑濃き明神山。その山頂付近には,6年ほど前まで,150羽を超えるアオサギやコサギの営巣地があり,その光景は圧巻だった。ところが,おびただしい鳥たちの糞で,貴重な社叢林の木々が枯死する心配が出てきたため,やむを得ず,氏子さん達はラジコン・ヘリ等を使ってこれを追い払った。
 
 
 ウバメガシ(姥目樫)は観音崎にも植栽された樹高3〜4mのものは存在するが,自生はしていない。ウバメガシの自生地は県内でも明神山と城ヶ島だけで,ここが分布の北限とされ,学術的にも貴重な明神山一帯は「県の天然記念物」に指定されている。

 自生地は山頂付近にあると聞き,行ってみたが簡単には見つからない。観音崎で見慣れたタブノキ,スダジイ,モチノキ,カラスザンショウ等は,樹形や木肌,葉の形等で見分けられる。消去法で,それらに該当しないものを探し回った結果,東照宮の右手にそれらしき木を見つけた。

 小学館のNEO植物図鑑によれば,ウバメガシはブナ科の常緑低木。樹高は3〜5mとあった。ところが,目の前に生えているウバメガシらしき木は目測で20m位はありそうだ。ズボンのベルトを外し,幹周りを測ってみたところ,ベルト2本分,約2m弱あった。本当にウバメガシだろうか?計測後,辺りを調べたところ他に3本,同じ木が生えていることがわかった。

 帰宅後,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べたところ,ウバメガシは通常は5〜6mの低木が多いが,20m近くまで成長することもあるとか。従って,このウバメガシは国内最大級のものと言えそうだ。

 因みに巨木の定義は,地上約130cmの位置での幹周りが300cm以上の木とある。従って,このウバメガシは巨木の定義に当てはまらないが,通常の樹高や幹周りを勘案すれば,巨木の範疇に入れても良さそうな気がする。
  
 
 
蘇 鉄
 
 社殿へ登る石段の左右には見事な蘇鉄が植えられている。「この蘇鉄は源頼朝公が源家再興の折,伊豆より移植奉納されたもの。」と案内板にあった。
 
 
 
狛 犬
 
 東叶神社の狛犬は口を結んだ吽形(うんぎょう)で,西叶神社の口を開けた阿形の狛犬とで一対になっている。ここの狛犬には,よく見るとそれぞれ乳飲み子がいて,右側の狛犬の子はおっぱいを含んでいます。
   
恵仁志坂と産霊坂
 
 社殿から山頂へ登る途中には二つの坂(石段)がある。社殿脇から中段までの坂は「恵仁志坂(えにしざか)」,中段より頂上に向かう坂は「産霊坂(むすびざか)」と呼ばれ,縁結びにご利益があるとされている。石段は合計223段あった。
 

恵仁志坂
 

産霊坂-1
 

産霊坂-2
浦賀城址
 
 戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時,房総里見氏からの攻撃に備えて,北条氏康が,山頂付近に城を築いたといわれ,水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残っている。当時,明神山は下田山・城山とも呼ばれていた。

 山頂付近は眺望の素晴らしいところで,対岸に房総半島,正面には浦賀八景の一つ浦賀燈明堂が見られる。また,山頂周辺には「奥の院」「東照宮」「神明社」「勝海舟断食の跡」「浦賀船渠株式会社殉職員慰霊塔」があります。
 

山頂からの眺望
 

燈明堂

奥の院
 

東照宮
(右側の樹がウバメガシ
 

神明社
 

浦賀船渠株式会社殉職員慰霊塔
 
勝海舟断食の跡と水垢離の井戸
 
 万延元年(1860),日本で初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の艦長格・勝海舟は,過酷な冬の太平洋を初めて航海するにあたり,東叶神社・社務所裏の井戸で水垢離をした後,明神山の山頂付近で断食をして,航海の安全を祈願したと伝えられている。
   
 
身代わり弁天
 
 社務所左手,勝海舟水垢離の井戸の手前に小さな鳥居があり,石垣に開いた祠(ほこら)の奥には石の弁財天が祀られている。祭神は「厳島媛命(いつくしまひめのみこと)」で,海難その他の難事の際に,身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。
 
芭蕉句碑
 
 拝殿脇から恵仁志坂を登り始めてすぐ左側に,芭蕉句碑と呼ばれているものがある。この自然石の句碑は,芭蕉の没後1150年目の天保14年(1843)に浦賀の俳匠・福井貞斎が建てたものだが,現存の芭蕉の記録には,この句や芭蕉が浦賀を訪れた記録もないので,いつどこで詠んだものかはっきりしません。しかし,浦賀の湊の情景を良く表現した句です。
 
                にょき にょき     ほばしら   
「丹よ起丹よ起と 帆ばし良寒き 入江哉」
   
 
 
例 祭
 
 東叶神社の例祭は,西叶神社の例祭と同じ毎年9月の第2日曜日に行われる。社殿前の石段登り口両側には,巨大な幟旗(のぼりばた)が立てられ,お祭りムードを醸し出しているが,境内や周辺道路には屋台が見あたらない。
 
 
 
 境内を訪れる人々も大半が地元の人で,私のようなよそ者の姿は少ない。身内の祭りの感じで,和やかな雰囲気が漂っている。それでも神社の神輿が登場すると急に賑やかになり,前年の祭り以降に生まれた新生児達が,抱きかかえられて神輿を担ぐ仕草をする。西叶神社の祭りとは一味違った雰囲気がそこにある。
 
 
 神社の神輿には大きな菊の御紋がついている。これが地元の人にとって誇りであり自慢のようだ。製作年代は定かではないが,神輿に取り付けられている鏡の裏に正徳2年(1712)の銘があるので,その年又はそれ以前のものと思われる。
 
 
 
神社神輿修復
    
 平成23年(2011),神社神輿が約10,000,000円の寄付金で修復された。神輿の屋根や要所要所に菊の御紋が燦然と輝いている。祭りを先導する役員さんや宮神輿総指揮者の祭り法被の背中にも,大きな菊の御紋が染め抜かれていた。
2011.9.11
 
 
 
 
 祭列の最後尾についた若宮丸という山車の形が,かって港町・造船の町として栄えた浦賀を象徴するように舟形をしていたのが印象的だった。
 
 
絵馬とお守り
 
 (東西)叶神社の絵馬掛には,厳しい世相を反映してか,おびただしい数の絵馬が掛けられていた。どんな願い事が書いてあるのだろう?そっと覗いてみると,志望大学や高校への合格祈願が圧倒的に多い。ついで,就職や各種国家試験合格,結婚願望,健康祈願,家内安全等々。

 絵馬掛けから溢れんばかりの絵馬を眺めながら,一つ残念なことにことに気づいた。祈願成就,合格御礼の絵馬が見あたらないのだ。3月半ばを過ぎれば,合否は判明している筈。「苦しい時の神頼み」は結構だが,「のど元過ぎれば熱さを忘れる」では先が思いやられる。
2009.3.19
 
 

両神社共通
 

西叶神社

東叶神社
 

西叶神社

東叶神社
 

東叶神社
 祈願成就,合格御礼の絵馬は,本当にないのだろうか?両神社を合わせて7ヶ所ある絵馬掛けの,願い事が表を向いている絵馬だけを拾い読みしたところ,ようやく一つだけ発見することができた。「○○大学附属中学に合格できました。ありがとうございます。」男子小学生の御礼絵馬だった。なんとも清々しい,救われたような気分になった。

 小学生が知っている御礼絵馬。それを何故,中高生や大人達はしないのだろう?気になり,学問の神様として有名な某天満宮のサイトを覗いたところ,御礼絵馬について,次のようなことが書かれていた。

 『感謝の気持ち或いは、礼儀として心から「ありがとうございました」という「ありがとう」の言葉は、私達が日々の生活の中でよく使う言葉であります。自分を支えて下さったご両親を始め家族、親身になってご教示頂いた先生、そして友人・同僚お世話になった方々へ感謝の気持ちとして心の底から自然と出てくる素晴らしい言葉であります。ご自分の努力と○○神さまのご加護で、願いが叶えられた事に感謝し御参り下さることをお待ちしております。』
   
 西叶神社の勾玉(まがたま)を東叶神社のお守り袋に納めて持っていると,恋愛に限らず,仕事・友人・その他,諸々の良縁が結ばれるとか。日頃,信心深いとは言えない私だが,孫達にこのお守りをプレゼントすることにした。

 赤い瑪瑙(めのう)の勾玉はピンクのお守り袋に入れて,今年小学校へ入学する孫娘へ。青い翡翠(ひすい)の勾玉はブルーのお守り袋に入れて,保育園児の孫息子へ。孫達がスクスクと健全に育ちますように!良い友達に恵まれますように!そんなジージの願いをこめて。
 

参考文献等
新浦賀案内記 浦賀地域文化振興懇話会
ぽんぽん船(創刊50号記念) 浦賀公民館「友の会」連絡協議会
浦賀探訪くらぶ・案内板 浦賀行政センター市民協働事業

観音崎のあれこれTOP  HOME