横須賀市指定史跡
燈明堂とその周辺
BGM :
「燈明堂と四季の花」
作曲 小宮佐地子
浦賀燈明堂 |
首切り場 |
台 場 跡 |
旧陸軍千代ヶ崎砲台跡 |
クリーン燈明堂 |
燈明堂と四季の花 |
海岸植物 |
燈明堂からの展望 |
観音埼灯台が見える! |
開発の波 |
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「燈明堂と四季の花」の無断転載及び商業目的での無断使用は禁止 |
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浦賀港の先端に,江戸時代に灯台の役割をした「燈明堂」が建っている。ここは東京湾でも数少なくなってきた自然の姿のままの海岸が残っている。さらに,燈明堂のある小さな岬からは東京湾を足しげく行き交う大小さまざまな船とその向こうに大きく横たわっている房総半島が手にとるように見える。 ここに燈明堂が建てられたのは,慶安元年(1648)のことであった。建てたのは江戸幕府であり,木造二階建て,瓦ぶきで,現在は横須賀市の史跡に指定されている石垣の上に建造された。一階の部分は灯(とも)し人足と呼ばれた番人の詰め所,二階が火を灯すところで,四方に油障子が入れてあり,その外側を銅の網で囲ってあった。幕末にガラス細工が普及すると油障子に代わって,ガラスが入れられたが,かえって乱反射して明かり届かず,何日もしないうちに元の油障子に戻したという。 この明かりは,直径36センチほどの銅製の容器に,灯心百筋を用い,その明るさは80ワットの電球ほどあり,4海里(7.2キロメートル)先から確認できたという。ということは,房総半島からも見えたのでしょうか。 また,燈明堂でかかる費用は,建設当初は灯し人足のみが,東浦賀の村の役割でした。しかし,元禄5年(1692)からは,東浦賀の干鰯(ほしか)問屋が維持管理費用のすべてを負担するようになりました。この背景には,それまで東浦賀で独占的に商売をしていた干鰯問屋にライバルが出現したために,いままで通りの東浦賀独占を維持するために税金の200両とともに燈明堂にかかる費用のすべてを負担せざるを得なかった。 この負担は時代が明治に変わり,その任務を観音埼灯台にバトンタッチするまで続いた。 今も燈明堂は自然とマッチして素晴らしい環境を残してくれており,この環境を未来へと引き継ぐのが私達の役割である。 |
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「燈明堂と四季の花」は詩も曲も美しい素敵な歌だが,私には違和感を覚える部分が一ヶ所あった。”ひまわり コスモス チューリップ”というフレーズで,ひまわりとコスモスはなんとか我慢できても,チューリップは燈明堂周辺の自然にはマッチしないと私は思った。歌の発表の後,花壇を訪れてみると,パンジー・ストック・菜の花が植えられていた。菜の花は兎も角,パンジー・ストックにはどうしても違和感を覚える。 燈明堂の自然にマッチするのは,燈明堂に灯りがともっていた時代,その周辺に咲き乱れていた海岸植物がふさわしいのではないだろうか?小宮先生にこのことを率直にお話しすると,多いに共鳴され,グループの中心になって活躍されている岩沢雅子さんをご紹介していただいた。 植物の専門家というわけでもなく,観音崎自然博物館の単なるボランティアに過ぎない人間が,我ながら差し出がましい話と思いながらも,岩沢さんにこのことを電話でお話ししたところ,ボランティアグループ「クリーン燈明堂」の常磐宏代表と共に面談していただくことになった。 地道にボランティア活動を推進されているお二人を前に恐れ多い話であったが,私の思いを単刀直入にお話ししたところ,耳を傾けられていた常盤さんが,やがて口を開きこんな苦労話をご披露された。 「現在,花壇に植えている花は全て園芸植物なので潮風に弱い。台風は勿論,強風の後,そのままにしておくと塩害で花や葉が黒ずみ,やがて枯れてしまうこともあります。 強風が吹き荒れた後,燈明堂周辺には水道がないため,二年前までは水タンクを軽トラックに載せ花壇の傍まで運び,ホースで散水して塩分を落としていました。それも大変な作業なので,現在では花壇から100mほど離れた場所に豊富な湧き水があるのに目をつけ,タンクに水を貯め,そこからエンジン駆動のポンプで水をくみ上げ散水しています。 私も潮風に強い植物を花壇に植えてみたいと考え,城ヶ島や観音崎へも出かけ,海岸植物を観察したこともありますが,良い考えも浮かばず,これまでは特になにもしていません。」 私はその話をお聞きして,観音崎自然博物館で行っている海岸植物の増殖・復元活動のことをご紹介した。お二人は本サイトに載っている博物館のボランティア活動に大変興味を示され,後日,博物館へ見学に行くことになった。 |
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軽トラックに水タンクを積み散水していた時の写真 (写真提供 : 常磐 宏代表) |
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お二人とお別れした後,私は一人で燈明堂から千代ヶ崎までの海岸線を歩いて海岸植物を探してみた。燈明堂周辺の地層は,博物館周辺と同じ逗子層と思われ,白っぽい泥岩が主体である。その泥岩の僅かな隙間に根を下ろした海岸植物が,数はそれ程多くはないものの,ひっそりと息づいていた。 イソギク・ヒゲスゲ・ボタンボウフウ・ハマボッス・ツルナ・アシタバ・オニヤブソテツ・ハマダイコン・ツワブキ・クコ等々。常盤さんのお話によれば,ハマカンゾウやハマナスも数本あるようだ。この他にスイセンやハマユウも植栽されている。数こそ少ないが種類は博物館周辺とほぼ同じと言える。 これらにハマナデシコ・スカシユリ・ソナレマツムシソウ・ハマヒルガオ等々を加え増殖・復元できたら?5年先,10年先になるかもしれないが,”ひまわり コスモス チューリップ”のフレーズを海岸植物に置き換えていただけるのではと,今からその日を夢見ている。 |
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イソギク |
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ボタンボウフウ |
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ツルナ |
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燈明堂からは雄大なスケールの展望を楽しむことができる。中でも目の前に広がる海とその向こうに横たわる房総半島の眺めは圧巻で,ここが横須賀市かと目を疑いたくなるような素晴らしい風景が広がっている。 | |
※画面をクリックすると拡大写真へ |
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千代ヶ崎から観音崎方面を眺めていると,観音崎自然博物館上の森の上にポツンと小さな白いものが目についた。カメラをズームアップして見たところ,どうやら観音埼灯台のようだ。 | |
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燈明堂と駐車場は横須賀市の所有地だが,背後の平根山や千代ヶ崎周辺は終戦後払い下げられ,現在は民有地になっている。燈明堂の海岸線は横須賀市港湾部が管理しているものの,民有地が海岸線ギリギリまで迫っているため,いつ住宅地として開発されてもおかしくない状態にある。 平根山の山頂周辺は既に工場が数軒と老人ホームが建設されているが,海岸部は幸い今のところ手つかずの状態にある。千代ヶ崎の民有地の大半は既に整地され,現在はレモン・ブルーベリー等の果樹が植えられている。しかしながら,これは仮の姿で,将来的には老人ホームかグループホームが建つのでは?と地元では噂されている。 燈明堂周辺は風致地区に指定されているため,勝手にこれらを建設することはできないが,できることなら,横須賀市が民有地を買い上げ,自然公園として保存することが望ましい。 |
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燈明堂から千代ヶ崎へいたる海岸線を歩いて,一歩陸地へ揚がると「注意!!私有地につき立入り禁止」の看板がいたるところに立っている。それを見ると,私有地は海岸線ギリギリまで迫っていると思われる。 現在,自然の姿のままの海岸が残っているのは,旧浦賀ドックの川間工場跡地と横須賀刑務所の敷地の間の僅か500〜600mくらいの海岸で,観音崎自然博物館の芝生広場から眺めると,その左右から開発の波が押し寄せ,いまにもその波に呑み込まれそうな気がする。 |
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開発の波が左右から押し寄せている! |
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燈明堂に隣接する旧浦賀ドック・川間工場跡 |
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千代ヶ崎に隣接する横須賀刑務所 |
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鴨居港と腰越海岸の間に亀崎という小さな半島がある。その先端部には以前観音寺があったが,火災で焼失後は土地が売却され,豪壮な別荘が建てられ,海岸線ギリギリまで擁壁が迫っている。もし千代ヶ崎に老人ホームや住宅が建つようなことになれば,海岸線の美観が損なわれること必死である。そうなる前になんとか横須賀市として対策を立てていただくことを願うこと大である。 | |
観音崎大橋から眺めた亀崎 |
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鴨居港から眺めた亀崎 |
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「燈明堂と四季の花」に寄せられた郷土史家 山本詔一先生の解説結び “今も燈明堂は自然とマッチして素晴らしい環境を残してくれており, この環境を未来へと引き継ぐのが私達の役割である。” この言葉を現在に生きるものとして肝に銘じて大切にしたい。 |