観音崎の地層
資料・説明原文 | 山岸 正平 |
写真・編集 | kamosuzu |
観音崎は地層の初歩を学習するには最適の場所です。 幕末から第2次世界大戦終了までの80数年間,防衛上の重要な場所として要塞地帯になっていたため,園内のいたるところに崖や切り通し・トンネル等があり,これらの多くはセメントで塗り固められず現存,地層が露出しているため観察が容易にできます。 しかしながら,観音崎は地層のデパートではないので,何から何まで見ることができるわけではなく,火山活動によってできる火成岩や熔岩などありません。また,化石は残念ながら肉眼で見られるようなものは見当りません。 観音崎の地形を構成している土地の大部分は,火山灰や凝灰岩が海底に堆積してできたもので,逗子層と池子層と呼ばれる地層があります。逗子層は600〜400 池子層は,逗子層の上に整合的に堆積した地層と言われているので,海底に堆積する段階では,現在逗子層の現れている南西側にも池子層が堆積していたものと推定されます。その後の,隆起と陸地化の段階で,観音崎周辺は北東側に比べ南西側の隆起が大きかったため,南西側にあった池子層は浸食・流出してなくなり,逗子層が地表に現れてきたのではないかと推定されています。 観音崎のある三浦半島は,南の深海底に何百万年にも亘って堆積した地層が,プレートと共に北上,押し上げられ,50万年前に陸化して現在の状態になったとされています。この間,地殻変動に伴い,地層はさまざまな影響を受け,変形したり壊されたりして現在の形になり,様々な形や姿をしています。 地層の傾斜もその一つで,元々深海底では水平に堆積していた地層が,地上に現れ現在に至る間に傾斜してきたと推定されます。。観音崎の地層は,ほぼ北西-南東方向に走っていて,南西から北東に向けて,約30度の傾きをもって下がっています。 上記のように観音崎では,逗子層と池子層という二つの地層の,さまざまな状態を観察することができます。10名以上の団体で地層の観察をされる場合は,観音崎ビジターセンターのフィールドレンジャー制度を利用されると,ボランティアが無料で案内活動を行っているので便利です。 詳細はフィールドレンジャーのページをご参照下さい。 尚,観音崎では火成岩や熔岩を見ることができませんが,火山豆石や花崗岩を観察することはできます。 |
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火山豆石とは,火山灰でできた丸い変わりアメ玉のようなもので,中心部は火山砂や小さな礫でできていて,大きさは直径数mm〜数cmの小さな丸い石。火山が水蒸気爆発を起こし,核になる粒子があると,水分が接着剤となってその周りにさらに細かな火山灰がまといつき,地表または海底に落下するまでに成長して火山豆石となる。 観音崎では,観音崎自然博物館からたたら浜・観音崎大橋を経て鴨居港へ抜ける途中の,小さな亀崎の磯で火山豆石を見ることができる。火山豆石は,火口から半径10〜20km以内に落下・堆積すると考えられ,亀崎の豆石を噴出した当時の火山も,それほど遠く離れていたとは考えられないが,現在ではその付近に火山は見当たらない。亀崎の豆石はどこから降ってきたのだろう? |
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亀崎半島 |
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白く丸いのが火山豆石 黒い核が見える豆石もある |
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観音崎には花崗岩の一種の御影石が沢山ある。しかしながら,それは地層として存在するのではなく,園路の敷石として見ることができるのです。 バス発着所のある観音崎レストハウスから,海岸園地を経て灯台下から海上自衛隊・観音埼警備所下トンネルへ通じる園路や,観音崎自然博物館前の噴水広場から戦没船員の碑方面に登る園路等には,横浜市電が廃止された時,路面から撤去された御影石が移設して敷き詰められている。 関連ページ「チンチン電車が?」 御影石は,兵庫県の有名な酒どころ灘五郷の,御影地方で産出される花崗岩に付けられた名前で,硬く耐久力に富んでいるため,敷石や建材として広く利用されている。今では,中国・スペイン・ブラジル等から輸入される類似した花崗岩も御影石と呼ばれています。 |
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園路中央部が御影石 |
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三浦半島・観音崎に火山はなかったと言われているが,観音崎から車で30分ほどの横須賀市平作で発見された熔岩が,横須賀市自然・人文博物館に展示されています。 三浦枕状熔岩と名づけられたその熔岩誕生の過程は,下記写真説明板の通りで,観音崎を含む三浦半島一帯が隆起するまで,逗子層や池子層と同じ深海に眠っていたようです。 |
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