横須賀美術館
谷内六郎館
2024週刊新潮・表紙絵展スケジュール |
週刊新潮 表紙絵展 大人たち |
館内での写真撮影OK |
谷内六郎館オープン |
観音崎のアトリエ |
「週刊新潮」創刊号表紙絵 |
「週刊新潮」表紙絵と原画 |
燈台の絵 |
みんなが選んだ谷内六郎 |
谷内六郎 モザイク壁画マップ |
かみふうせんニュース |
2024週刊新潮・表紙絵展スケジュール |
大人たち | ||
2024年10月26日(土)〜2025年2月16日(日) | ||
《リモコン》1979.4.26号 |
《かけて》1964.11.2号 |
《ボールとらして下さい》1978.2.23号 |
(C)Michiko Taniuchi | ||
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谷内六郎さんの名をご存知の方は多いと思うが,知らない方でも「週刊新潮」の表紙絵を長い間描いていた人と言えば,知らない人は皆無と言っても過言ではないと思う。それほど多くの人に親しまれ,その心を魅了し続けた谷内六郎さんの絵を常設展示する谷内六郎館が,横須賀美術館・別館として2007年4月28日オープンした。 | |
「島も走る」 (C)Michiko Taniuchi |
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谷内六郎(1921−1981)は1956年から26年間,『週刊新潮』の表紙絵を描き続けました。その総数は,1336点にのぼります。その一部は,今まで各地の展覧会などで目に触れる機会もあったかと思いますが,表紙絵のほぼ全てを収蔵し,それらを常設展示してゆくのは谷内六郎館が初めてとなります。 谷内六郎は,1975年に美術館の目と鼻の先にアトリエを構えました。表紙絵の中にも観音埼灯台や浦賀ドックなど,横須賀ゆかりのモチーフが多く描かれています。そうした縁もきっかけとなって1998年,数多くの作品が横須賀市へ寄贈されたのです。 谷内六郎館ではその開館を記念し,(週刊新潮 表紙絵)を中心として,『週刊新潮』第1号の表紙絵から順番に,収蔵する全ての原画を展示していきます。これらは『週刊新潮』発行順に原画を常設展示していくことで,皆さんに時間をかけて表紙絵の全貌を知っていただくという試みでもあります。また,表紙絵のほぼ全てについて作家本人が書いた文章「表紙の言葉」の原稿など,表紙絵に関わる資料も併せて展示いたします。 谷内六郎館の展示室は,海に面した心地良い空間となっています。懐かしい,あるいは時代を超えて新たな魅力を発揮し続ける谷内六郎の作品を,のんびりお楽しみください |
横須賀美術館 準備ニュース vol.05から転載 |
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谷内六郎さんのアトリエは「観音崎京急ニュータウン」と呼ばれる団地の一角にある。アトリエの目の前は県立観音崎公園で,本サイトに度々登場する「花の広場」から歩いて3〜4分の場所にあります。 (追記) 残念ながら,本アトリエは2018年に取り壊されて,別の建物が建ちました。表札が無いため所有者は不明です。 |
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花の広場では春のナノハナに始り,ポピー・ヒマワリ・コスモス・サルビア等の花々が,四季折々訪れる人を迎えてくれる。その花の広場に通称「帽子のトイレ」と呼ばれるトイレがあり,妙に周囲の風景にマッチしているため,本サイトの「最新見どころ情報」にもしばしば登場するが,トイレが被写体になると言うのも不思議な気がする | |
2007.4.26 |
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私はこの帽子のトイレを見ると,何故か谷内六郎さんの絵に登場する少女の帽子を連想する。そこである時,公園を管理する観音崎ビジターセンターの方に「帽子のトイレは谷内六郎さんの絵をモチーフにしたのですか?」と尋ねてみたが誰も知らないと言う。 さらに,トイレの設計・建設を監理した横須賀土木事務所の公園班を紹介され,電話で尋ねてみたが「設計会社には,周囲の自然にマッチしたトイレを設計するよう指示したが,特に谷内六郎さんの絵を意識はしていないと思う。」とのことであった。しかしながら,私には下の絵に出てくるような少女の麦わら帽子に思えてならない。 |
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(C)Michiko Taniuchi |
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谷内六郎さんは昭和31年(1956)「週刊新潮」の創刊と同時に表紙絵を担当、昭和56年(1981)1月23日、急性心不全のため59歳で死去されるまで,25年間にわたり多くの読者の心を魅了し続けた。 「週刊新潮」の創刊号は私が高校一年生の時発行され,私はその表紙絵に惹かれ愛読者になったが,没後は自然と「週刊新潮」を手にする機会が少なくなってしまった。 私は表紙絵を美術的に云々する知識を持ち合わせていないが,どこか素朴な谷内六郎さんの絵を見ていると,疎開先で過ごした幼き日の懐かしい思い出が,ほのぼのと昨日のことのように蘇ってくる。 それほど好きだった表紙絵を,私は残念ながら一枚も保存していない。このページを作成するに当たり,せめて創刊号の表紙絵を掲載したいと探していたところ,zizi's WebSight(現在リンク切れ)というホームページに掲載されていることを発見した。 ziziさんの母君が谷内六郎さんのフアンで,創刊号から表紙だけを切り離し全て保存してあり,それを順次スキャンして掲載されたとのことで,谷内六郎さんが死去された昭和56年分までの作品(※)が掲載されている。(2005年2月22日完成) 掲載された数々の表紙絵を眺めながら,昔を懐かしく思い出しているが,ziziさんの母君に比較して,一枚の絵すら保存していない私はただただ身の不明を恥じると共に,ziziさんの熱意に感謝する次第である。 |
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「表紙の言葉」 | |
上總の町は 貨車の列 火の見の高さに 海がある | |
乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴は低音、鶏はソプラノ、雨戸の節穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。 兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳におぐれるよ、上總の海に陽が昇ると、町には海藻の匂いがほろがって、タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。 房州御宿にて |
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(C)Michiko Taniuchi |
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谷内六郎さんの作品1319点が,ご命日に当たる平成10年1月23日(1998)ご遺族から、谷内六郎さんがこよなく愛し、アトリエを構えていたゆかりの地の横須賀市に寄贈された。 それらの作品は平成19年(2007)観音崎公園の走水園地に完成の横須賀美術館に展示される予定であるが,現在はその一部をインターネットの「横須賀バーチャル美術館・谷内六郎のアトリエ」で垣間見ることができる。 私は「週刊新潮」の表紙絵と横須賀バーチャル美術館の原画を見比べて,絵の雰囲気が大きく異なることに驚き,この二つを対比してみることにした。 「週刊新潮」の表紙絵と原画を並べて見ると,文字の有無・印刷インクの退色等により印象が大きく異なるのに驚かされる。その感想は見る人それぞれによって異なると思うので,私の感想は差し控えるが,横須賀美術館に原画を展示する際,「週刊新潮」の表紙絵も並べて展示したら興味深いと思う。 |
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燈台の上から鏡の反射、さすが光を利用する燈台の子です。ぼくはあの静まりかえった白い午後の燈台が好きで、たいてい海辺の燈台は立寄ってみます。白の中の不思議な静けさ、遠い沖の白波、そんなコントラストがたまらなくいいし、やはり海洋ロマンチシズムという派に入るようです。風力計などがカラカラまわる午後の陽ざしの中ではとくに別世界に行ったような気分になれます。 初秋から秋の陽ざしの白は胸にしむこむものがあります。この表紙の言葉もK燈台から帰って来て書いております。たいぶ前にぼくが一日燈台長をやらせてもらったところです。そこにはぼくの絵が燈台長室に飾ってあり、時々お茶を御馳走になりに行く燈台です。 光放射の型式から電波放射に移る時代になって来たようで、今にこうした白い燈台も姿を消して行くのでしょう、燈台も又SLのように去って行くのでしょうか。 (注) K燈台 : 観音埼燈台 |
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(C)Michiko Taniuchi | ||
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小さな漁港はポッカリとした静けさをたもっていました。それは時々ゆれる波が光の波紋を埠頭にうつす位で、船もゆっくり休んでいるようです。こんなのどかな港は子供の遊び場です、小さい子が来たのでいそいでスイカを帽子の下にかくすと、時たまやって来る波の手が運悪く帽子をさらってスイカの秘密をアバキました。 大きな子たちはしかたなく小さい子にも見つかったスイカをわけたことでしょう。波しぶきをあびながら食べたスイカ、せみしぐれを聞きながら食べたスイカ、下町の風鈴の音のもとで食べたスイカ、夏の思い出にはスイカがつきもののようです。スイカドロボウというのもいつの時代でも、夏のつきものです。三浦半島あたりの産地ではパトロールが大変らしいです。 (注)小さな漁港 : 鴨居港と思われる。 |
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(C)Michiko Taniuchi | ||
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静かなドックの昼さがり、進水式らしく船の先にクス玉が割れ青空にテープが舞いました。造船日本という位で日本の海岸線には沢山巨大なドックがあります。あんまり巨大すぎて部分的にカットして見ないと絵にしにくいのが船の工場とか車の工場です。 この絵は三浦半島の浦賀ドックのわきにあるお寺のある山からスケッチしたものをもとにして描いたものです。三浦海岸の浦賀水道は東京港や横浜港に出入りする内外の汽船できりもないです。あらゆる型の船が出入りしています。中にはあれが船か?と思うようなものすごいクレーンをつけた工場の箱のようなものも来ます。 水面スレスレに砂利をつんだかなりコギタナイ船も入って来ますが、コギタナイ労働船ほど収入がいいのだと聞いたりもしました。アラビアの方に行く石油のタンカーもきりもなく通ります。浦賀、黒船来るの時代は遠いまぼろしです。 (注)浦賀ドック : 浦賀船渠(株)→住友重機械工業(株)浦賀工場(平成15年閉鎖) 地元の人は通称ドックまたは浦賀ドックと呼んでいた。 |
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(C)Michiko Taniuchi |
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