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嘉永6年(1853年),ペリー率いる黒船の浦賀来航を契機として,新しい日本の幕が切って落とされた。しかし,この黒船に乗り込んだ最初の日本人の名を知る人は意外と少ない。恥ずかしながら,私もその一人であった。その最初の人物こそが,浦賀奉行所与力・中島三郎助その人であった。三郎助の生涯はこの黒船とのかかわりによって大きく変わり,そしてそれが我が国を近代日本へ導く鍵となり,浦賀船渠株式会社(以下,浦賀ドックと略)が,浦賀に設立される由縁ともなった。
三郎助は文政4年(1821年)1月25日,浦賀奉行所与力・中島清司の次男として生まれた。15歳の時与力見習いとして奉行所に出仕し,以来,終生浦賀の民政・治安・町の開発のために尽力した。天保8年(1837年)にモリソン号が日本の漂流民を浦賀に送り届けに来た。しかし,それまでの幕府の外交政策であった「薪水給与令」から,「無二念打払令」に転換した後であったので,砲撃を加えることとなった。三郎助はこの時,観音崎台場に勤務しており,初めて目の前で異国船を見ることとなった。これ以来,彼はますます海防に強い関心を示すようになっていった。 |
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これに拍車をかけたのが嘉永6年(1853年)ペリーの来航であった。我が国はこれを転機として鎖国政策を解き,開国への一歩を踏み出した。三郎助は常に日本の直面した危機の中でこれからの国のあり方を見据え,幕府のとるべき方針を進言し,さらに軍艦の建造や砲台の築城に従事するなど,一与力に過ぎない身分ながらも重要な国務に携わっていた。
また,ペリーが来航した時は,応接掛として米艦に乗り込み,折衝の任にあたりながら艦内を見まわった様子は「ペリー日本遠征記」の中でも「詮索好きで好感の持てない人物」として描かれている。しかし,この行動が翌嘉永7年(1854年)日本初の「鳳凰丸」建造に大いに役立つことになる。
三郎助は早くから洋式船の必要性を十分に感じ取っていた。安政2年(1855年)には,勝海舟・榎本武揚らと共に,長崎の海軍伝習所へ派遣され海軍士官としての修業と造船術を学び,安政5年(1858年)5月江戸に戻り,海軍操練所教授方として後輩の指導にあたった。また,咸臨丸の修理を行うなど,まさに海国日本の造船・操船の第一人者としての礎を築いていった。さらに武士として剣術・槍術に関しても諸流の免許皆伝,大筒鋳造,砲台建設に至る専門的な技術をも身につけていった。 |
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慶応4年(1868年)に幕府は大政を奉還し,それとともに150年の歴史をもった浦賀奉行所も廃止され,与力・同心たちもついに離職に至った。三郎助は幕臣として,主家徳川氏のために命を投げ出すことを決意し,明治元年(1868年)11月,長男恒太郎・次男英次郎及び腹心の同志や榎本武揚らと共に江戸を脱出し,函館五稜郭に籠って新政府軍を迎え討った。しかし,その思いも届かずついに武運尽き,二人の子共々,千代ヶ岡で壮絶な死を遂げた。時に三郎助49歳であった。ただ,三郎助のこの最期は初めから強い意志のもとであり,彼の決心はとてもゆるぎないものであった。それほど三郎助という人は武士としても,人間としても忠義一途な人物であった。
三郎助は文人としても和漢の学に造詣が深く,和歌・俳諧・漢詩文などをたしなみ,ことに俳人としては当時の浦賀のみならず江戸俳壇においても俳人「木鶏」として知られていた。混乱の世にあって国事に忙殺されながらも,時に詩を吟じ,折にふれ俳句に思いを託す,彼の作品の数々はその時々の心情を余すところなく今に伝えている。
※木鶏…木製のニワトリ。強さを外に表さない最強の闘鶏のこと。 |
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ととぎす われも血を吐く 思ひ哉
~箱館旧幕府軍追討令が新政府軍より下されたことを知った三郎助が詠んだ句~ |
また,三郎助は心からこの浦賀の地を愛し,浦賀の人々を愛しんだ。郷人も彼に信頼を寄せ,敬慕の念をもって報い,そして浦賀港を見渡せる愛宕山の頂に招魂碑を建立し,今なおその姿を追いかけ思いを馳せている。
幕末から明治維新にかけての浦賀は開国の舞台として脚光を浴びた。その折,たまたま一与力であった中島三郎助という武士の数奇な生涯は,新日本の誕生の運命を大きく動かした。彼の残した功績は言葉では語り尽くせない。彼の生き様や人生は私たちに今も何か語りかけている。時代に翻弄された浦賀とそこで必死に生きた人々。さまざまな思惑の中,日本のため,じぶんの信じる人のため命を捧げ生抜いた中島三郎助という与力を,私たちはこれからも語り継いでいかなければならない。 |
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浦賀CC(郷土資料館)刊 「浦賀奉行所と与力・中島三郎助」から転載 |