レンガ構築物
観 音 崎 公 園

 観音崎は東京湾の湾口に位置することから,幕末〜第2次世界大戦終了の1945年(昭和20年)まで,防衛上の重要な場所として要塞地帯になっていて,一般人は立ち入ることができなかった。

 観音崎に砲台が築かれたのは明治10年代初めで,今でも砲台跡や弾薬庫跡があちこちに残され,兵員や物資の輸送を容易にするためのトンネルも多数現存する。

 私たちが現在目にすることのできるレンガ構築物は,それらの地表に現れた部分だけで,それの数倍〜数十倍規模のレンガ構築物が地下に眠っている。

 敵の目を欺くため,地表に露出している部分は極力少なく自然を残し,その他の付帯施設は地下に造られた。その結果,幸運にも開発を免れた広大なスペースに,豊かな自然が残されたと言われている。

 観音崎の地下は要塞化され,司令室・士官室・兵士室・弾薬庫・各種ホール等々があり?それらをつなぐ無数のトンネルが掘られているとのことであるが,現在ではその入口に当たる部分はコンクリートや厚い鉄の扉で閉ざされて,中を窺うことはできない。
北門第一砲台跡
 

連絡通路トンネル:フランス積 
※セメント部分は後日の補修
北門第二砲台跡
 

トンネル内弾薬庫入口:フランス積 
※入口はコンクリートで塞がれている


弾薬庫への通路入口
 下の写真は上記入口の内部で,ある意味で貴重な写真と言える。何故なら,観音崎の地下要塞に通じる入口部分は全てコンクリートや厚い鉄の扉で閉ざされて,中を窺うことはできないことになっているが,ここだけは人目につかない場所にあるためか,中に入ることができた。尚,この入口はその後頑丈なグレーチングで閉鎖されたので,現在は立ち入りできない。

 下の写真はフラッシュを使用して撮影したので明るく輝いているが,肉眼では一寸先も見えないほどに真っ暗で,無鉄砲なところのある私も恐怖心からこの通路をこれ以上前に進むことができず引き上げた。 

弾薬庫への通路内部:フランス積
北門第三砲台跡
 

トンネル入口

トンネル壁面:イギリス積
三軒家砲台跡
 

弾薬庫入口:イギリス積
※入口部分はコンクリートで塞がれている

イギリス積拡大写真
腰越保塁砲台跡
    
 下部が埋設され周囲と妙に調和しているので,これを弾薬庫と気付く人は稀と思う。
 

弾薬庫入口上部:イギリス積
旧火薬庫(青少年の村)
    

基礎部:イギリス積 
※白いモルタル仕上げ部分もレンガ造りとのこと
観音崎隧道
(昭和47年完成)
  

トンネル入口:長手積(レンガ風タイル)

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