観音崎今昔写真館
二体の観音像

  
 観音崎の地名は,「今は昔」 奈良時代の僧行基が船の安全のため十一面観音(舟守観音)を海蝕洞穴に納めたことに由来すると伝えられています。このあたりに観音堂が創建され,江戸時代には本殿・般若堂が建ち並び,漁民・船乗りたちの信仰は大変厚いものでした。天正19年(1591)仏﨑山(ふだらくさん)観音堂料三石の御朱印をいただいています。…浦賀探訪クラブ解説板から  
  

「浦賀道見取絵図」 東京国立博物館蔵
 

舟守観音(十一面観音菩薩)
  

海蝕洞穴 '平成25年(2013)
 
 明治13年(1880)観音崎に陸軍砲台が築造され要塞化されたため,翌年,観音寺は鴨居港と腰越の浜の中間に突き出た鴨居の小さな半島・亀崎の先端部に移された。亀崎に移されてからも「船守観音」は多くの人々の信仰をあつめていましたが,大正12年(1923)の関東大震災で観音寺は大破してしまいました。

 震災から3年後の昭和元年(1926)観音寺は再建され,寺を地域の青少年に文庫と学習室として開放,更に夏の間,健康センターとして開放する等地域の人々に親しまれていたが,昭和61年(1986)火災により本堂・庫裏と共に舟守観音像も焼失してしまいました。
   

大正4年(1915)頃の鴨居観音寺
 

昭和元年(1926)の鴨居観音寺





   
 今,(舟守)観音像が二体存在すると言うと驚かれる方も多いと思われるが,間違いなく二体存在する。一体は鴨居亀崎の焼失した観音寺跡地前の観音堂。もう一体は観音崎公園の海蝕洞穴内の観音堂。
 
鴨居亀崎の観音堂
 
 昭和61年(1986)火災により本堂・庫裏と共に観音像も焼失。その後,観音寺は檀家や墓地を持たない祈祷寺であったため,再建されることなく時は流れ,地元の資産家から提供されていた敷地は売却され豪壮な別荘が建てられた。そして焼失から17年後の平成15年12月(2003),別荘正門前に篤志家により観音堂が建立された。お堂に向かって入り口右側には「佛崎山観音寺」,左側には「三浦第十四番札所」と刻まれた石碑がある。尚,「三浦第十四番札所」の石碑は今も健在だが,昭和61年(1986)の火災により本堂・庫裏とともに観音像も焼失してしまったことから,現在は札所から除外され,代わりに三浦市初声の「妙音寺」が「三浦十四番札所」に指定されている。
  
 
 
 左側石碑の後ろには,焼失した観音寺唯一の遺物と思われる石碑がある。参道正面には「佛嵜山観音寺」,左面に「明治壬寅……」,右面に「西国三十三所勧請」,裏面に「元禄八歳乙亥……」と刻まれている。これらの碑文から,この碑が明治壬寅=明治35年(1902)に建てられたもので,観音寺が元禄八歳乙亥=元禄八年(1695)に西国三十三所を勧請して観音巡礼の寺となったことを後生に伝えるため建碑されたと思われる。私は国語学者や歴史学者でもない単なる素人なので自信はないが,もし私の推測に間違いがあるようであればご指摘頂ければ幸いです。……kamosuzu@yahoo.co.jp
    
 
 本堂は木造,屋根には立派な日本瓦が葺いてあり,小さいながらも堂々たる佇まいをしている。お堂右側の柱上部には「寂光堂」と名札がついていて,観音崎公園の海蝕洞穴近くに無縁仏を祀る「寂光土」と呼ばれる墓地があることを思い出した。「寂光土」とは永遠で絶対的な浄土のこと。仏の住む世界で,生滅変化がなく,煩悩による乱れがなく(寂),知恵の輝く(光)ところと説く仏教用語のようだ。
  
 
 
 お堂の扉は普段閉められているが,格子戸なので格子の間から覗いてみると,円空彫り風の木彫りの観音像が祀られていた。焼失した観音像とは似ても似 つかないお姿をされているが,それなりに慈愛に溢れた雰囲気が伝わってくる。ご仏前には誰が供えたか真新しい仏花が一対供えられていた。
   
 
 
 
 帰り際,お堂の右手に塵取りのようなものがチラッと見えた。気になりの近づいて見たところ,そこにはプラスチック製の塵取りの他,ホウキが2本,熊手が2本つり下げられていた。今ではお堂は管理人不在と聞いていたが,ご近所の心ある方が仏花を供えたり周辺の掃除をされているようだ。
   
 
 
海蝕洞穴内の観音堂
 
 観音寺が火災により本堂・庫裏と共に観音像を焼失してから32年後,鴨居亀崎に観音堂が建立されてから15年後の平成30年9月(2018),「観音崎」の地名のルーツとされる観音像を復元する計画が発表された。

 「観音像なら亀崎にあるのに何故?」と当初はいぶかしく思ったが,亀﨑の観音堂は一篤志家が建立されたもの。設置された場所が観音崎ではなく亀﨑であることや,観音像も行基作とされる観音像とは似ても似つかぬお姿をされていることを考え合わせると復元したとは言えないためと納得した。
  
 

2018.9.7発行「タウンニュース横須賀版」
 
  発表から1年後,火災で焼失した観音像が33年ぶりに復元され,観音崎公園で令和元年9月23日(2019)お披露目式典が行われた。復元を目指してきた市民有志団体「観音崎プロジェクトの会」のメンバーら約200人が参加,節目を祝福した。式典では,関係者らがテープカットなどを実施。除幕され,観音像が姿を見せると,会場では大きな拍手が上がった.。尚,焼失したことで三浦半島に33カ所ある三浦半島三十三観音札所」から外されていたが,復元により「番外」(旧十四番)として再び登録されることも発表された。
  

2019.9.13発行「タウンニュース横須賀版」
 
 

普段は安全対策のための柵があるため観音堂には近づけない
 

お堂の窓には波打ったようなアクリル板が嵌めてあるため観音像が?
 

看板写真で代用
 
 観音像は高さ75センチ。観音堂に納められた上で,公園内の海蝕(かいしょく)洞穴内に設置された。併せて,観音崎のいわれや観音像の歴史を紹介する看板,安全対策のための木製柵が立てられたほか,近くのレストランの中庭には御朱印台も設けられた。先ずは「めでたしめでたし」 で終わりたいところだが,いくつか残念なことがあるので,蛇足としてご紹介させて頂くことをお許しいただきたい。
    
蛇足
 
 二体の観音像及び観音堂を写真で対比させていただきました。「百聞は一見にしかず」といいますので,現地へ一度ぜひ足をお運びいただければ幸いです。
鴨居亀崎・観音堂
海蝕洞穴・観音堂
       
   
   
 
格子の隙間から
 
看板写真から
   

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