観 音 寺
(仏崎山・禅宗)


海蝕洞窟
観音寺跡
お茶屋跡
移築後の観音寺
現在の観音寺
御朱印
焼失「観音像」復元計画
「観音像」復元!
新御朱印台
海蝕洞窟
 
 観音崎の地名は,奈良時代の僧行基が船の安全のため,十一面観音(船守観音)を海蝕洞窟に納めたことに由来すると伝えられている。現在,洞窟は海面から6〜7m位の場所にあるが,1万年〜6000年前の暖かい間氷期,今より海面が5mほど上がっていた時に,波に削られてできたと考えられている。
洞窟の由緒
 聖武天皇の御代天平十三年(741年)の春,行基菩薩は諸国修行の途中ここに来られ,この洞窟に住んでいる大蛇が,漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ,大蛇を退治してその霊を,鵜羽山権現として祀られました。

 この近くの走水神社に日本武尊とその妃弟橘媛命がお祀りしてありますが,この洞窟の沖で入水して海を鎮められた弟橘媛命を,十一面観音として刻まれ側に安置されまして以来,海上安全,人命保護の霊地として信仰されてまいりました。

 時代の変転により荒廃に帰しましたが,時来って今日は観光の地として復興されて,再び海上安穏,人命守護,世界平和の祈りがなされています。
 
鵜と大蛇と観音さま
 
 このむかし話は,三浦半島を愛するお母さんの集まり「あしたばの会」の方々が,次の時代の子ども達のため,地域に伝わるむかし話を大勢のお年寄りにお会いして,長い時間をかけて集めたお話の種をまとめ上げたものです。この本の68〜78頁には「鵜と大蛇と観音さま」と題する“観音崎”の地名の由来となった観音さまのお話が,優しく詳しく載っています。発行元の『暁印書館』さんのご厚意で,「鵜と大蛇と観音さま」の全文を掲載させていただきましたので,ぜひご覧ください。
 
   

観音寺跡
 
 観音埼灯台への登り口付近,現在,西脇順三郎の詩碑や東屋がある辺りに観音堂が創建され,江戸時代には本殿・般若堂などが建ち並び,村民や漁民・船乗りたちの信仰は大変厚いものでした。
  

「浦賀道見取絵図」 (東京国立博物館蔵)

この付近に観音寺があった。
お茶屋跡
   
 観音寺があった場所の前にある岩礁には,規則正しい穴が縦横にあけられて残っている。現在,鴨居・亀崎にお住まいの元横須賀市自然・人文博物館長 田邊 悟氏の著書「観音崎物語」によれば……
  
 「この穴は,もとこの地にあったお茶屋(今でいう料理屋)が建っていた時の柱の穴で,当時の茶屋の大きさがわかる。活きた魚を入れておく活簀の跡も二つ残っている。大正12年9月1日の関東大震災の時,波打ち際の岩礁が隆起したので,今では海水がほとんど入らない。

 明治13年ころにはこのあたりが軍用地になったためになくなったようだが,それまでは地元の走水や鴨居の人達ばかりでなく,浦賀の漁師達なども,わざわざ船に乗り,櫓を漕いでここまで遊びに出かけてきたと言うことである。」

柱の穴と活簀の跡
移築後の観音寺
  
 明治十三年(1880)観音崎に陸軍砲台が築造され要塞化されたため,翌年,観音寺は鴨居港と腰越の浜の中間に突き出た小さな半島・亀崎の先端部に移されました。

 亀崎に移されてからも「船守観音」は多くの人々の信仰をあつめ,また寺を地域の青少年に文庫と学習室として開放,更に夏の間,健康センターとして開放する等地域の人々に親しまれていたが,昭和六十一年(1986)火災により焼失。三浦三十三観音としての第14番札所「観音寺」は,吉井にある第15番札所「真福寺」が現在は代行しています。
  

観音崎大橋から眺めた現在の亀崎
  
 「セピア色の観音寺」

大正4年(1915)頃

昭和初年(1926)頃

昭和4年(1929)
久保木実編「絵葉書が語る三浦半島の百年」 昭和59年(1984)発行
現在の観音寺
 
 焼失した観音寺の土地はその後人手に渡り,所有者は不明だが豪壮な別荘が建てられ,その大きな別荘の門前に小さなお堂がある。それが現在の観音寺で,焼失した十一面観音(船守観音)に代わって,円空彫り風の観音様が祀られている。
 
  
御朱印
 
 観音様の本開帳は午年に行われる。最近では平成26年(2014)に御開帳され,次回は2026年になる。私は平成2年(1990)の本開帳の際,三浦三十三観音を車で巡礼?して御朱印をいただいた。下の写真はその時,吉井の真福寺でいただいた三浦観音第14番札所「観音寺」の御朱印です。
  
焼失「観音像」復元計画

焼失前の十一面観音像

2018.9.7発行「タウンニュース横須賀版」
 


消失観音像復元
 

2019.9.13発行「タウンニュース横須賀版」
    
 火災で焼失した観音像が33年ぶりに復元され,県立観音崎公園で令和元年9月23日(2019)お披露目式典が行われた。復元を目指してきた市民有志団体「観音崎プロジェクトの会」のメンバーら約200人が参加,節目を祝福した。式典では,関係者らがテープカットなどを実施。除幕され,観音像が姿を見せると,会場では大きな拍手が上がった.。

 観音像は高さ75センチ。観音堂に納められた上で,公園内の海蝕(かいしょく)洞穴に設置された。併せて,観音崎のいわれや観音像の歴史を紹介する看板,安全対策のための木製柵が立てられたほか,近くのレストランの中庭には御朱印台も設けられた。
    
 
 
 

洞穴左側に復元に至る由来と観音像の写真看板が設置されている
 
新御朱印台
 
 海蝕洞穴内・観音堂設置に伴い,観音崎バス停前のレストラン(旧レストハウス)中庭には前述の通り御朱印台が設けられたが,いつの間にか御朱印スタンプが消え失せてしまった。不心得者の仕業と思われるが,何とも腹立たしい。その後,一向に補充される気配もないのも残念。
   
 
 
   
三浦三十三観音札所
(番外・旧十四番)
    
 鎌倉時代初期,三浦半島一帯が大飢饉に襲われました。
苦しむ人々を見かねた源義経の家臣鈴木三郎重家は人々
の救済を発願し,三浦半島の三十三ヶ所の霊場を参拝して
巡りました。するとその年は豊漁豊作となり人々は飢饉
から救われました。以来,これらの霊場は三浦札所とし
て定められ現代に至るまで人々に親しまれています。
 かって十四番札所だった,観音崎の十一面観音は,昭
和六十一年のお堂の火事により焼失し三十三カ所からも
消えてしまいましたが,令和元年に有志グループの勧進
により復元されました。
 現在,復元された観音様は三十三観音札所に指定され
ておりませんが,市民からの希望もあり,当地に朱印台
を設置いたしました。観音崎を訪れた記念として押印し,
観音様の数奇な運命と悠久の歴史を感じていただければ
と思います。
令和元年  
   
観音崎プロジェクトの会
 

観音崎公園TOP  HOME