千代ヶ崎砲塔砲台跡

起 工 大正13年(1924)
竣 工 大正14年(1925)

大砲種類・砲数 据付 除籍 旧砲塔搭載艦
45口径30センチ加農砲2門・砲塔1基 大正14年6月
(1925)
昭和20年8月
(1945
戦艦・鹿島


  千代ヶ崎砲塔砲台跡は千代ヶ崎砲台跡の隣接地にあるが,その歴史は比較的新しい。首都防衛を目的に築かれた観音崎砲台群や千代ヶ崎砲台は明治期に築造されたが,大砲の進化はめざましく,大正期に入る頃には,下の射程距離比較表にあるように,時代遅れの代物となってしまった。

 ロシア等の外敵脅威から国土を守るには,明治政府が諸外国から購入した種々の海岸砲を廃止撤去し,より威力の高い砲を開発装備することが必要となった。しかしながら,日露戦争等で疲弊した当時の日本経済には,莫大な費用を捻出するだけの余裕はなかった。

 そこで,苦肉の策として登場したのが「砲塔砲台」。第一次世界大戦終結後,大正11年(1922)に締結したワシントン軍縮条約により廃艦となった戦艦(鹿島)の主砲を利用。陸軍と海軍が協力して設置した千代ヶ崎砲塔砲台が日本最初の砲塔砲台となった。
2025.8.22
 
加農砲の射程距離比較
据付・年 種類 砲種 最大射程 倍率 据付場所
明治27年(1894) 加農砲 23口径24センチ 9000m 1 観音崎第一/第二
明治29年(1896) 加農砲 30口径27センチ 14850m 1.7 観音崎三軒家
大正14年(1925) 加農砲 45口径30センチ 29600m 3.3 千代ヶ崎砲塔砲台
 千代ヶ崎砲塔砲台跡は千代ヶ崎砲台跡に隣接する観光農園「ファーマシーガーデン浦賀(以下FSGUと略)」内に残されています。こちらは有料・完全予約制で,入園できる日もブルーベリーやレモンの収穫できる時期に限定されますので,農園の公式サイトをご確認の上お出かけ下さい。 
 
 上の画像は横須賀市が管理する千代ヶ崎砲台跡とFSGUが管理する砲塔砲台跡の位置関係を理解するために作成しました。尚,FSGU管理地内には,千代ヶ崎砲台の右翼観測所跡と近接防御堡塁跡が赤点線内に残されています。
 
 千代ヶ崎砲塔砲台は第一次世界大戦後の大正14年(1925)に据付終了。太平洋戦争が終戦を迎えた昭和20年(1945)まで現地に据え付けられていた。しかしながら,戦後,米軍により破壊されてしまったため,現在その場所には直径約10m位の巨大な穴が残されているのみ。僅かな救いは,砲台の地下施設である副機関室・畜力機室・機関冷却用水槽及び観測所が廃墟のまま残されていること。

 私は砲塔砲台跡をこれまでに平成18年(2006.2.3)と平成30年(2018.7.15)の2回見学しているが,その時は,恥ずかしながら「砲塔砲台」が何たるかも知らず,単に興味本位で観音崎砲台や千代ヶ崎砲台と同様の砲台跡と思って見学。砲台跡等の遺構があまり残されていないことに失望したのが真相。

 砲塔砲台が当時としては画期的な砲台であることを知ったのは,今年1月学研・日本の戦争遺跡シリーズ「日本の要塞」を目にしてから。本来ならば改めて見学したいところだが,高齢化による足腰の不調もあってままならないのが現状。そこで苦肉の策として,2回見学の際に撮りためた画像を「日本の要塞」等を参考に整理してみた。
砲塔砲台跡・地下施設跡

柵門前方中央部が砲塔砲台跡  2018.7.15
   

柵門から谷戸に下る軍道擁壁  2006.2.3
  

右側が砲塔砲台跡・正面は房総半島
この谷戸には兵舎・発電所・井戸小屋があった
  2006.2.3
   

画像中央が砲塔砲台跡  2018.7.15
    

画像中央が地下施設 上部に砲塔(大穴)  2018.7.15
      

砲塔跡の大穴  2006.2.3
   

地下施設(副機関室・畜力機室・機関冷却用水槽)  2006.2.3
  

畜力井跡  2018.7.15
  

砲塔井底部   2018.7.15
    

①砲塔砲台 ②副機関室 ③畜力機室 
④機関冷却用水槽 ⑤観測所(地下式)
「日本の要塞」から拡大・トリミングして転載
観測所跡
 砲塔砲台跡については,上記の通り比較的順調に整理できたが,より簡単と思われた観測所跡の整理には,撮影した画像が僅か4枚と言うこともあって悪戦苦闘した。原因は観測所の場所。
  

正面出入口
    

側面
   

後面
   

内部
2ヶ所の観測所跡?
 2018.7.15開催された「千代ヶ崎砲塔砲台見学ツアー」のガイド・東京湾要塞研究家 デビット佐藤氏の案内で撮影したのが上の画像4枚。この観測所は現存しているが,場所は「日本の要塞」のイラストに記されている場所とは大きく異なる。

 イラストでは下の画像の右上「砲塔砲台跡」の左⑤辺りにあったとなっているが,その辺りには遺構らしきものは全く存在せず,ツアーで案内された観測所跡は画像左下。直線距離で約270mほど離れた場所にあった。更に⑤の観測所は(地下式)となっているのに対し現存観測所は上4枚の画像にあるように地下式ではない。何故だろう? 
  
   
 「日本の要塞」を丁寧に読み直したところ,103頁に「八八式海岸射撃具」なるものが紹介されていた。それによれば「八八式海岸射撃具は射撃測距用の観測具として開発された。そして千代ヶ崎砲台において初めて試験的に設置されたものである。この装置は主と分の二つの側遠機から得られたデータにより,算定具(電気式計算機,いわば射撃用アナログ・コンピュータ)で射撃諸元を算出し,これを砲塔に伝達するシステムになっている。これらの装置は電気回路で結ばれており,データを速算,算砲,主分の3つの配電盤によりコントロールする大掛かりなものだった。」とあり,千代ヶ崎砲塔砲台には主・分2ヶ所の観測所が存在したことになる。明治期の伝声管による伝達方式に比べると画期的なシステムだったようだ。

 そこで思い出したのが,砲塔砲台跡から観測所跡へ至る道すがら見かけた換気口らしき直方体のコンクリート製物体と謎の地下施設。場所は上の画像の中央部上にあり,地下施設を見学したが,当時はあまり興味のない施設だったので,最後尾を歩いていたこともありガイドの話も耳に届かず。観測所跡or兵舎(棲息掩蔽部)or弾薬庫だったのか記憶にない。ヒョッとしてこの施設が観測所跡だったのでは?
     
  
    
   
   
  
千代ヶ崎砲塔砲台跡の実態
 私はこれまで観音崎砲台跡群を手始めに,近隣の砲台跡をいくつかご紹介してきたが,今回ほど手こずった砲台はなかった。現地には案内看板や説明看板のようなものはいっさい見当たらず。リーフレットも存在しないようだ。頼りになるのは「日本の要塞」のみ。ところが肝心の本誌にも観測所の位置などいくつか疑問が生じてきた。

 そこで「千代ヶ崎砲塔砲台跡」をキーワードにネット検索したところヒットしたのは千代ヶ崎砲台跡で,砲塔砲台跡は僅か1件。その貴重な1件が,前述の2018年開催「千代ヶ崎砲塔砲台見学ツアー」のガイド・東京湾要塞研究家 デビット佐藤氏のウエブサイト「 東京湾要塞千代ヶ崎砲塔砲台

 同氏サイトは東京湾を囲む神奈川・東京・千葉のあらゆる戦争遺跡を伝える専門サイトで,千代ヶ崎砲塔砲台跡についても,砲塔砲台の平面図・立面図,観測所の平面図・屋根伏図も掲載されていて素人にもわかりやすい。ところが,残念なことに私の上記疑問を解消してくれる記載がない。

 そこで失礼をも顧みずメールでご相談したところ,ありがたいことに即日ご返信を頂いた。ところが,観測所の位置については疑問解消したものの新たな疑問が発生したりで,数回のメール交換を経てようやく全ての疑問を解消することができた。要約すると下記の通り。

1.「日本の要塞」のイラスト⑤の場所に観測所は存在したのか?
 千代ヶ崎砲塔砲台跡の観測所は当日見学した観測所1ヶ所のみ。イラストは誤り。

2.直方体のコンクリート製物体は観測所の換気口では?
 2ヶ所の観測所跡?で見学した地下施設は,千代ヶ崎砲台の近接防御堡塁部分の弾薬庫で,直方体のコンクリート製物体はその通気口。

3.砲塔砲台の弾薬庫は何処に?
 (デビット佐藤氏回答)
 砲塔砲台の弾薬庫は正直なところわかっていません。砲塔なので、考えられるのは砲塔の地下部分のどこか、または周辺かという事になります。ここで考えられるのは、ここは演習用の砲塔なので、特に強固な弾薬庫ではなく、砲塔の下部のどこかに簡易的に設けられ、又その保管量も少数であったことが想定されます。

4.千代ヶ崎に「八八式海岸射撃具」は存在したのか?
 八八式海岸射撃具は存在しなかったと思われる。
 (デビット佐藤氏回答)
 千代ヶ崎の砲塔砲台では、分観測所はなかったと思われます。そもそも、近隣に88式観測所は存在しませんが,範囲を広げるとあります。千代ヶ崎砲塔砲台は重砲兵学校の演習砲台ですが、重砲兵学校の観測所という事から見ると、一番近いところでは、小原台にあります。小原台と花立台には演習砲台もあります。次いで曲矢、さらに田戸にもあったようです。位置関係からは千代ヶ崎が最東なので、これを分観測所として小原台や花立台で利用したという事は考えられるかもしれません。また、千代ヶ崎でも利用できるのかもしれません。ただ、その辺は確証がありません。また、88式海岸射撃具が試験的に初めて設置についても、私が調べたところでは、年代的に見ると三崎砲台の観測所が最初ではないかと考えています。なので、この本もいくつか誤りがあるのではないでしょうか。

 私kamosuzu
は,本砲塔砲台を実戦用と理解していたが間違いで,現在,馬堀小・中学校や馬堀自然教育園辺りのエリアにあった陸軍重砲兵学校の演習用砲台であることも判明した。ここで訓練を受けた全国の重砲兵が,その後に築造された対馬海峡6ヶ所,東京湾4ヶ所,津軽海峡1ヶ所,豊後水道1ヶ所の計12ヶ所の実戦用砲塔砲台に配置され,指導的役割を果たしたと考えると感慨深いものがある。

 尚,本ページ制作にあたり,東京湾要塞研究家 デビット佐藤様に詳細なご教示を頂戴いたしましたことに,厚く御礼申し上げます。

観音崎砲台TOP   HOME