東浦賀
八雲神社
神奈川県横須賀市東浦賀1丁目17-58

 祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代のもので,もとは大谷山満宝院八雲堂(おおがやさんまんぽういんやくもどう)という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで,寺の型式であるお堂建築になっており,鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。

 お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で造られた龍が取り付けられ,長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ,須佐男命が乗った山車と猩々坊が(しょうじょうぼう・厄除け人形)が出ます。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ案内板から
龍の漆喰鏝絵
 
 向拝に取り付けられている龍は漆喰鏝絵(しっくいこてえ)。左官職人が土蔵などの壁の仕上げに鏝と漆喰で作り上げたレリーフを鏝絵と呼び,「三浦の善吉」として「伊豆の長八」とともに,漆喰鏝絵の名人として全国的に知られる石川善吉48歳時,明治35年(1902)の作品。

 「向背の龍」と呼ばれるその作品は,木彫り彫刻?と見紛う,見事な出来栄えで,全国的にも珍しい存在と思われます。尚,漆喰鏝絵は八雲神社の他,西叶神社・法憧寺・川間町内会館などにも残されています。
 

正面

背面
御宝珠
 
 寺から神社に変わった当時,屋根に乗っていた御宝珠。現在のものは,その後作り替えられた金属製。
祭  礼
   
 祭礼は例年,六月の第二土・日曜日に行われる。メインイベントは日曜日の神輿・山車などの行列。「高張提灯」を先頭に,「先金棒の少女」「幟旗」「猩々坊の台車」「神輿」「須佐男命の山車」の順に東浦賀町内〜浦賀駅前間を練り歩く。
    

猩々坊の台車

須佐男命の山車
猩々坊
 
 行列の中で異色の存在は「猩々坊」。猩々といえば,まず思い浮かぶのが能楽の「猩々」。赤く長い髪が特徴的で,衣装も赤地または赤模様。中国において猩々は,想像上の動物で猿に似ているとされ,人の顔と足を持ち,人の言葉を理解し,酒を好むという。日本では赤面赤毛とされ,酒飲みの異名ともなっている。一方,八雲神社の猩々坊は,大きな頭と顔,黒々とした髪・髭・眉に白い顔。どこか一種異様な雰囲気が漂っているが,猩々とは共通点があまり感じられない。

 江戸末期に疱瘡(天然痘)が流行した時,人々は「疱瘡神」と言う疫病神が疱瘡を流行らせると考えた。猩々には能の印象から転じて赤色のものを指すこともあり,疱瘡神は赤色を苦手とし,「赤が病魔を払う」という俗信から,東浦賀の人々は「猩々」に「坊」をつけて擬人化,赤い衣装を着せて「疱瘡神除け」として祀ったようだ。全国には「赤い御幣」「赤一色の鍾馗絵」「赤い玩具の鯛車」「猩々人形」等々,赤を基調としたお守りや風習が存在するが,八雲神社の猩々坊は他に類を見ないユニークで貴重な存在と思われる。

 八雲神社は東浦賀町大ヶ谷の畠中という谷戸にあり,猩々坊は江戸末期の文久2年(1862)に造られた。ところが何故か,明治33年(1900)以降の祭礼においては,町内引き回しが行われなくなってしまった。それから95年が経過。これを惜しんだ町内の人達が,神社に保存されていた猩々坊の色を塗り直したり,髭をつけたりして修復,平成7年(1995)見事復活を果たし,現在に至っているようで大変喜ばしいことだ。
  
幟  旗
  
 祭礼の行列では,5本の幟旗が猩々坊の前に登場する。幟旗(のぼりばた)の上部には,「鉾」と中国の伝説上の神獣である四神「青龍・白虎・朱雀・玄武」が飾られている。中国天文学では,天球を天の赤道帯に沿って東方・北方・西方・南方の四大区画に分け,それぞれに四神を(四象)を対応付けた。これを東方龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀と呼ぶ。
 

鉾:呪力を持つとされている

龍:東方を守護,青は東方の色

白虎:西方を守護,白は西方の色

朱雀:南方を守護,朱(赤)は南方の色

玄武:北方を守護,玄(黒)は北方の色
直   会
 
 行列の練り歩きが終わると,神社の参道では直会(なおらい)が行われていた。
 「直会とは,神社における神事の最後に,神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌(供物)を食する行事。一般には,神事終了後の宴会(打ち上げ)とされるが,本来は神事を構成する行事の一つである。神霊が召し上がったものを頂くことにより,神霊との結びつきを強くし,神霊の力を分けてもらいその加護を期待する。」……フリー百科事典ウィキペディアより引用

 さほど広くない神社の境内や参道には,祭りに参加した神輿の担ぎ手を中心に,溢れんばかりの人々が集まり,お神酒や供物を戴きながら和気あいあい賑やかに語らっていた。直会に参加している神輿の担ぎ手の法被を眺めながらその多くがよそ者であることに気付いた。久里浜や追浜等の法被も見受けられる。「よそ者」というニュアンスはあまり聞こえが良くないが,昔であれば排斥されたであろうよそ者が,担ぎ手が一集落では賄いきれなくなった現在では,助っ人として大歓迎されているようだ。
 

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