開 国 雑 記
観音埼灯台下海岸の素掘りのトンネルに関する考察
横須賀開国史研究会
会員 安田 直彦
(フィールドレンジャー
)
写真:Kamosuzu

 
 観音崎大橋を腰越側から渡った道を進むと、右側に海上自衛隊観音埼警備所の下を通る形で、小さなトンネルがある。筆者は観音崎でボランティアをしていて、このトンネルを灯台への案内の往来に利用したり、素掘りであるため、地層の案内の際にもよく説明に使う場所である。しかしながら、江戸時代に作られたと漠然と聞いてはいたが、詳しい建設の経緯や時期については把握していなかったので、今回考察を試みたものである。
  

 江戸時代で、この場所ということであれば、当然観音崎台場の建設とのかかわりが考えられる。まず文化7年(1810)に会津藩が相州側の江戸湾警備を担当することになり、その一環として、観音崎台場が文化9年(1812)に竣工した。現在の観音灯台のある場所である。

 この台場に関して、文政4年(1821)より浦賀奉行所の管轄となったが、文政5年(1822)
9月17日浦賀奉行小笠原長保の日記『東福寺詣』註(1)に次のような記述がある。

「かくて八幡宮(鴨居八幡神社のことと考えられる。)のお前を畏み過ぎて、漁家ならび居ける間を行き盡し、左は磯傳ひ五六町ばかりに御備場の門あり、ここは観音崎の御備場なり。(中略)一町ばかり行きて山に登る。また二三町上に木戸あり、
(中略)岨の方には大きなる鐵砲あまた並べて如何なる數萬の軍船寄せ來らんとも、此をもて打拂はんにはいと心易かるべう思はる。(後略)

この日記には先述のトンネルに関する記述は無い。

 その後、観音崎台場の防備は川越藩が引継いだが、弘化4年(1847)年の山鹿高補の『浦賀巡覧私記』註(2)に、このあたりに関して次の記述がある。

 「観音堂アッテ佛崎山ノ扁額アリ、(中略)
 路ヲ左ニ取リ海岸羊腸ノ巖石上ヲ傳ヒ、右ノ山路ニ上ル、夏草道ヲ掩ヒ、辛クシテ観音崎砲臺ノ下ニ出ル、(中略)此處ヨリ三四町行ニ川越候ノ陣營アリ。山により甚ダ要害ノ地ナリ、此營会津ノ鎮タリシ時の營ナリ。(後略)」 

 この記事にもトンネルに関する記述が無く、最初の観音崎台場が作られた当時には、該当トンネルは掘られていなかった。
 その後、観音崎台場の立地が高台にあり、外国船の打払いに不適切であることから、嘉永3年(1850)年12月の『三浦郡観音崎台場移築につき達書』註(3)により鳶巣崎への移転が下令された。鳶巣崎は該当トンネルを東に抜けたところで、現在海上自衛隊の敷地になっているところと考えられる。これが鳶巣台場であり、川越藩が警備を担当した。

観音埼灯台下磯から見た鳶巣崎
(現在海上自衛隊観音埼警備所敷地)

鳶巣台場跡地付近
潜水艦「なだしお」と衝突・沈没した遊漁船「第一富士丸」犠牲者の慰霊碑
 嘉永4年(1851)4月の『三浦郡観音崎台場移築につき仕様書』註(4)には、同所より火薬蔵を始、武者溜等え之通ひ道之義、并方にては海西より見透れに相成差支申候間、(中略)穴道に切抜被成下度奉存候事、とあり、トンネルの必要性が述べられている。そして工事は永嶋重美が請負った。永嶋重美家海防関係文書のなかの『字鳶巣崎御台場御普請仕様書』註(5)に、そのトンネル(台場への通道)の大きさが次のように記述されている。

繰穴長36間(65.4m)、平均高1丈1尺(3.33m)、平均横9尺(2.73m)

 そこで、現存のトンネルと一致するか、今回簡単に実測してみた。まず長さは歩測であるので不正確であるが約60mであった。高さ、横幅は灯台に抜ける側で測定したところ(反対側はセメントで補修されているため)、アーチ状の最上部で高さ約3.6m、横幅約2.8mであり、仕様書とほぼ同じであった。

 鳶巣台場の工事時期には、幾つかの説があるが、安政3(1856)年の『相中留恩記略』註(6)に「観音崎陣屋、台場嘉永5年(1852)正月事始、8月成」とある。

 なお赤星博士の『三浦半島城郭史 江戸灣口防衛史(江戸時代)』の鳶巣台場の項には、先の『相中留恩記略』註(7)の挿入図に「堀リ抜往来」として描かれているとの記述があり、これが該当トンネルに相当するものであろう。

 
以上より、該当トンネルは鳶巣台場建設に伴って、嘉永5年(1852)頃に完成したと推測される。


南西 → 北東

北東 → 南西

トンネル壁面
 
(1)『神奈川懸三浦郡志(復刻版)』(株)千秋社 1996年 44頁
(2)上記と同一文献。 46頁

(3)『神奈川県史 資料編 10 近世(七)』
    財団法人神奈川県弘済会 1978年 161頁

(4)上記と同一文献。 162頁
(5)『横須賀市文化財調査報告書 第七集』
    横須賀市教育委員会 1980年 72頁

(6)『相中留恩記略(校注編)』 (株)有隣堂 1967年 178頁
(7)赤星直忠『横須賀市史八 三浦半島城郭史 上巻』
    横須賀市教育委員会 1955年 80頁
本文は「横須賀開国史研究会」機関誌「よこすか開国史かわら版第7号」から転載
追 記
   
 素掘りトンネル内の海岸側への出口近くの両側と、出口横にセメントで覆われた矩形の構造物が見られる。この遺構について『市史研究 横須賀第7号(2008年)』 において、野内秀明氏らが「東京湾要塞 観音崎砲台跡の現存遺構について」という調査報告内で、下記のように述べられている。(同書58頁)

 軍道から第四砲台跡への二本の交通路交点地下には鳶の巣台場へ抜けるずい道が存在するが、それを抜けたところに矩形の空間が存在し地下施設が集中して存在している。入口が閉塞されているため、内部構造は不明だが、観音崎砲台内の位置付けを含めて、その構築時期や用途の把握が必要な施設群と思われる。
 
余 談
  
 上記遺構について,2003年7月観音崎・海岸七不思議のページを作成した際,観音埼警備所の所長さんに電話でお尋ねしたところでは,「観音埼警備所のある場所には,旧軍時代に三門の砲台があり,地下に弾薬庫や兵員室があったが,砲台は撤去され,弾薬庫や兵員室の入口はコンクリートで塞がれて,現在は中へ入ることはできません。」とのご返事をいただいた。

 いずれにしても,観音崎公園内に数多く散在する遺構の内部構造や構築時期・用途等をできるだけ早い機会に調査して,歴史遺産として後世に伝える必要があると思われる。
2011.7.5Kamosuzu記

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