砕氷艦 2代目
し ら せ
主要要目 | |
項 目 | 諸 元 |
長さ×幅×深さ×喫水 | 138m×28m×15.9m×9.2m |
基準排水量 | 12,500トン |
巡航速力 | 15ノット(28km/h) |
最大速力 | 19.5ノット(36km/h) |
軸 出 力 | 30,000馬力 |
推進方式 | ディーゼル電気推進 |
推 進 器 | 固定ピッチプロペラ2基 |
定 員 | 乗組員179名 |
観測隊員等80名 |
2009年5月31日(日)砕氷艦2代目「しらせ」の一般公開が海上自衛隊 横須賀地方総監部で行われた。「しらせ」は海上自衛隊に所属する自衛艦。南極地域観測協力を行う我が国唯一の砕氷艦で,その任務には物資及び人員の輸送,観測支援などがある。 2代目「しらせ」は,1982年(S.57)に就役した初代「しらせ」が老朽化したため,その代艦として2007年(H.19)起工,2009年5月20日に就役したばかりの新造艦。横須賀地方総監部ではこれまでも護衛艦等の一般公開をしていたが,私はこれまで見学に訪れたことはなかった。 新造砕氷艦を一目見てみたい。興味津々,JR横須賀駅近くにある横須賀地方総監部へ初めて足を運んだ。入門時は何のチェックもなく拍子抜けしたが,しばらく行くとテントがあり,空港のゲートで行われていると同じような手荷物検査が行われていた。私の持ち物はカメラ一つだけだったが,何故かブザーが鳴り,ボディーチェックをされた。 |
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ボディーチェックをされたものの,不審な物は何も持っていなかったので,無事ゲートを通過。新造中の岸壁の向こうに「しらせ」の姿が現れたが,驚いたことに,岸壁上に見学者が延々長蛇の列。最後尾から先頭まで300〜400m,乗艦できるまでどれくらいかかるだろうか? | |
行列はゆるやかに少しずつ前へ進むが少々まどろっこしい。退屈まぎれに写真を撮ったりキョロキョロしていると。2代目「しらせ」の反対側に係留されている数隻の護衛艦の一番奥に,初代「しらせ」らしき艦尾が見えた。近くにいた警備の自衛官に尋ねたところ,確かに初代「しらせ」だが,今日は一般公開されていないとの答えが返ってきた。 既にお役御免なので,やむを得ないのだろうが,できれば,新旧同時に一般公開して欲しいと思った。後で知った話だが,初代「しらせ」は今のところ自治体や団体等の引取先が無く,このままだとスクラップになる運命だとか。 日本初の南極観測船として活躍した「宗谷」は,東京・お台場にある船の科学館前に,「宗谷」の後継艦「ふじ」は,名古屋港のガーデンふ頭に,それぞれ係留され永久保存展示されている。四半世紀,我が国の南極観測に貢献した初代「しらせ」の良い婿入り先?が現れることを願わずにはいられない。 |
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初代「しらせ」の艦尾 |
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初代「しらせ」の艦首 |
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最後尾に並んでから待つこと約30分,ようやく乗艦することができた。本艦にわたるタラップから振り返ると,見学客が絶えることなく続いている。艦内は新造ホヤホヤのこともあって,何処も清潔でペンキの匂いが残っている。航海の安全を願う神棚も微笑ましい。艦橋や甲板からの眺めもこれまで接したことのない新鮮な雰囲気がある。 | |
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当日配布されたパンフレットから転載 |
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艦内一巡後,大型ヘリコプターが離着陸する飛行甲板に出ると,視界が大きく開け,米軍基地が目の前に広がっていた。ドック中の艦艇や潜水艦が手に取るように見える。写真を撮っても良いのだろうか?こちらが心配になるほどオープンだ。 | |
ドック中の大きな艦艇の甲板が広いので,警備の自衛官に米軍の空母か?と尋ねたところ,海上自衛隊の護衛艦で「ひゅうが」と教えられた。帰宅後調べたところ,「ひゅうが」は航空母艦と同様の全通甲板を持ち,同時に3機までヘリの発着艦が可能な自衛隊最大の護衛艦で,今年就役したばかりの最新鋭艦であることが判った。 | |
手前が建造中の「ひゅうが」係留岸壁 |
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浦賀水道を南下中の「ひゅうが」 2012.9.30 |
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「しらせ」の飛行甲板と格納庫には,南極と観測船に関する興味深い品々,「南極の石」「南極の氷」「スノーモビル」等々が展示されていた。最後に記念スタンプのコーナーがあり,私も行列に並んでスタンプを押した。 | |
南極の氷 |
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スノーモービル |
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記念スタンプ |
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展示品の一つに隕石があった。南極では隕石が沢山見つかるという。何故か?解説板を読んでそれなりに納得したが,遥か遠い宇宙から飛来する隕石は,神秘的な存在だ。 | |
展示物の中に,興味深い資料が目に入った。「日本の砕氷艦の要目比較」と「各国砕氷艦の主要要目」。二つの表を見比べながら,私は約半世紀前に起こった二つの出来事を思い出した。 その1.ソ連砕氷船が「宗谷」を救出 1957年(昭和32)第一次南極地域観測隊が昭和基地を開設した。観測船宗谷は帰路,厚い氷に閉じこめられ立ち往生してしまった。幸い,近くにいたソ連(現ロシア)の砕氷船オビ号の救援により,辛くも外洋に脱出することに成功したが,砕氷して進むオビ号の後に続く宗谷は,離されないよう注意しなければならないほどの性能差があったという。その後も宗谷は1958年(昭和33)にアメリカの砕氷艦バートン・アイランド号,1960年(昭和35)には再びオビ号の救援を受けている。 この出来事は,私が高校生の時に起こった。まだテレビが普及していない時代,ラジオや新聞でこのことを知り,オビ号が神様・仏様のように思えたものだった。私はそれまで,ソ連が大嫌い。太平洋戦争で日本の敗戦が濃厚になった終戦間際,「日ソ不可侵条約」を破棄して,南樺太,千島,北方領土に侵攻・奪取。60万人もの日本人をシベリヤに抑留して強制労働をさせた等々。ロシア人を鬼畜のように思っていただけに,オビ号の救援は意外だった。 その2.樺太犬タロとジロ 1958年(昭和33)犬ぞりの樺太犬15頭が置き去りにされる事件が発生した。第一次越冬隊員と交代するため第二次越冬隊員を乗せた宗谷が,第一次隊員は小型雪上機で帰還させることはできたものの,天候の悪化から,第二次越冬隊員を昭和基地に送り込むことができなかった。 その後もぎりぎりまで天候の回復を待ったが,宗谷自身が遭難の危険性が出てきたため,第二次越冬隊の派遣を断念。その結果,15頭の樺太犬は,犬ぞりに首輪でつながれたまま置き去りにされてしまった。残された犬たちの生存は絶望視され,観測隊は犬を置き去りにしたことで,世間の激しい非難を浴びた。 ところが,1959年(昭和34)第三次越冬隊のヘリコプターが昭和基地へ着陸すると,2頭の犬が駆け寄ってきた。最初はどの犬だったか判別がつかなかったが,第一次越冬隊の犬係の隊員が,次々と犬の名を呼びかけ,タロとジロの兄弟犬であることが判明した。 この奇跡とも言える出来事には,当時,反抗期にあった私も素直に感動したものだ。この話は後に「南極物語」として映画化されているが,少々美化されている感もある。 この二つの事件は,当時の南極観測船「宗谷」の性能の低さを象徴する出来事と言える。それに比べて二代目「しらせ」の性能は飛躍的にアップ。諸外国の砕氷艦と比較して,勝とも劣らない性能を備えていることを誇らしく思う。 それにつけても,太平洋戦争終戦,僅か11年後の日本がまだ貧しい時代。今から思えば貧弱な装備の「宗谷」という船で,極寒の地「南極」へ出かけた先人の勇気と探求心には,今更ながら頭が下がる。 尚,「日本の砕氷艦の要目比較」の左端にある「開南丸」は,1912年(明治45)白瀬中尉が南極探検をした時に使用した船で,「宗谷」と比べても比較にならないほど貧弱な船であったことがわかる。「しらせ」の艦名は,この偉大なる先駆者に因んで命名された。 |
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約1時間の艦内見学後,午前12時頃下艦。好天に恵まれたこともあって,岸壁には老若男女の見学物客が絶えることなく続いている。その中には,私と同世代の人が多く見うけられた。恐らくこの比較表を眺め,半世紀前のこの出来事を思い出し,感慨にふけることだろう。 | |
帰途ヴェルニー公園へ立ち寄ると,赤いバラの花が満開だった。公園の左手には,出てきたばかりの海上自衛隊 横須賀地方総監部があり,オレンジ色の「しらせ」の煙突や船体が垣間見える。公園の目の前には,黒い船体の潜水艦。その手前を「よこすか軍港巡り」の遊覧船が見物客を満載して出港していった。いかにも横須賀ならではの光景だ。 | |
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観音埼灯台下の磯で,なにげなく沖合を見ると,オレンジ色の船影が目に入った。砕氷艦2代目「しらせ」だ!南極へは11月頃出航の予定と聞いていたので,おそらく練習航海なのだろう。 | |
2009.8.24 | |