昭和20年〜30年代
昔の商い



 今は便利な時代だ!簡単な物なら近くのコンビニへ行けば,24時間なんでも手に入る。街のいたるところにジュース・酒・タバコにお米の自動販売機すらある。デパートやスーパーへ行けば,それこそ何でも揃ってる。インターネットやテレビショッピング,カタログ通販なら外出しなくても,居ながらにして欲しい物が手に入る。

 ところが,便利になった代償として失ったものも多い。米屋・魚屋・八百屋・肉屋・豆腐屋・惣菜屋・酒屋・蕎麦屋・寿司屋・駄菓子屋・金物屋・履物屋・文房具屋等々の個人商店が激減。物売り・行商・修理等の商いは,いつのまにやらほとんど姿を消してしまった。

 いたずらに昔を懐かしむつもりもないが,個人商店や物売り・行商の類には,売り手と買い手の間に会話があり,人情があり,季節感もあった。考えてみれば,個人商店の場合,多くのお店が電話一本で,配達や出前をしてくれたし,物売り・行商・修理の類は家の玄関先まで商品を運んで来たり,修理をしてくれた。昔は意外と便利な時代だったような気もする。

 昔と言っても,大正・明治・江戸時代の話ではない。今から約半世紀前,戦後の昭和20年〜30年代のことだ。その当時のことを思い出しながら,物売り・行商の類を中心に,懐かしい“昔の商い”等の情景を数回に分け,一年がかりで再現してみたいと思う。舞台は作者の故郷「横須賀・吉井」と編者の故郷「東京・大森」が主な舞台である。
2007.8.20


水彩画・原文 藤井 俊二
加 筆・編集 kamosuzu


藤井俊二氏の作品が「公募展横須賀」入選!


物売り・行商 アイスキャンデー売り 豆腐屋 八百屋
越中富山の薬売り 納豆売り  竹箒売り
花売り    
修理・再生 鋳掛屋 煙突掃除 カサ修理
移動販売 紙芝居 ラーメン屋  
店頭販売 氷屋 壺焼き芋  駄菓子屋 
その他 ゴミ屋      





  
花売り
  
 
 背負カゴに季節の花をビッシリと詰め,花売りおばさんはやって来る。姉さんかぶりに絣(かすり)のもんぺがおばさんのユニフォームだ。

 
いつもニコニコ笑顔を絶やさず。お馴染みさんへは訪問販売もする。仏壇に供える花,室内に飾る花,花にもいろいろある。当時はみんな貧しかったが,おばさんの運んで来る花が,明るさを与えてくれていたような気がする。
 





  
アイスキャンデー売り
  
 
 暑い暑い夏の日。チリン,チリンと金色に輝く真鍮製の鐘を鳴らし,「アイスキャンデー」「氷」と染め抜いた水色の旗をなびかせ,自転車に乗ったアイスキャンデー屋さんがやって来る。

 荷台のクーラーボックスには,砂糖か人工甘味料で味つけし,青やピンクに着色したアイスキャンデーが一杯詰まっていた。粗末なものだったが,渇いたノドには格別のご馳走だった。値段は1本10円か20円だったが,それすら買えず,羨ましそうに遠くから,眺めているだけの子どもも多かった。 
 





  
豆腐屋さん
  
 
 早朝や夕暮れ時,自転車に乗って,プープーと銅製の小さなラッパを吹きながら,豆腐屋さんがやって来る。自転車の荷台に積んだ木製の箱の中には,豆腐の他に生揚げ・油揚げ・雁擬きも入っている。

 「と〜ふ〜,なまあげ,あぶらげ,がんもどき,と〜ふ〜」売り声につられるように,近所のおじさん,おばさん,子ども達がナベやアルマイトのボールを持って飛び出してくる。

 味噌汁用に豆腐を注文すると,豆腐を手の平にのせ,包丁で賽の目に上手に刻んでくれる。良く手の平を切らないものだといつも感心していた
 





  
八百屋さん
  
 
 現在,高層マンションや洒落た住宅が立ち並ぶ「湘南山の手団地」周辺は,当時「吉井」と呼ばれ,住宅地のまわりには田舎がそのまま残っていた。

 畑で野菜を作っているお百姓さんが,毎日,両端の大きなカゴに,とれたての野菜を載せ,天秤棒で担いで売りに来た。それこそ,産地直送の野菜だった。

 下肥と無農薬で育てた野菜は,虫食いだらけで,形も悪かったが,トマト・キュウリ・ナス・トウモロコシ等々,その季節限定の野菜の味は,甘みがあり美味しかった。

 今は便利な時代で,これらの野菜のほとんどが,一年中,季節に関係なくスーパーや八百屋さんの店先に並んでいる。虫食いの無い,形の良いそれらの野菜は,ほどよく色づいている。ところが,味や匂いが何処かへ消えてしまったような気がする。
 





  
越中富山の薬売り
  
 
 当時はどこの家にも,越中富山の薬袋があり,その中には風邪薬・胃薬等の家庭の常備薬が一式入っていた。富山から唐草模様?の大風呂敷に包んだ柳行李を背負い,定期的に現れるおじさん。中身を調べ,使用した分を補充,その代金を支払う。未使用の薬の内,古くなったものは新しいものと交換してくれる。なかなか合理的なシステムだった。

 その時,おじさんは子ども達に紙風船をプレゼントしてくれた。丸・四角・菱形等の紙風船を貰えるのが楽しみの一つだった。おじさんが紙風船をふくらませ,ポンポンポンと叩く心地良い音が,今でも耳の奥に残っている。

 富山の薬売りと言えば「越中富山の反魂丹,ハナクソ丸めて万金丹」という悪ガキ達の囃しことばを思い出す。時々薬のお世話になりながらも,効能については半信半疑。交換した古い薬はどうするのだろう?そんな疑問を子ども心に持った記憶がある。
 





  
納豆売り
  
 
  朝早く「ナット〜ナット〜ナット〜〜〜」と,納豆を売り歩く少年がいた。スギやヒノキを紙状に削って作った“経木”で包んだ納豆は,大きなおむすびのような三角形をしていた。

 中学生くらいの納豆売りの少年は,いつもボロボロの服を着ていたが,元気で明るい大きな声で納豆を売り歩いていた。少年の声が聞こえると,近所のおじさんやおばさん達が,急いで飛び出してきて,毎日のように納豆を買っていた。

 毎日,納豆を食べて,よく飽きないものだと子ども心に思ったものだが,少年の稼いだお金は,貧しい家計を支えていたと後になって知った。
 





  
竹箒売り
  
 
 「タケボーキ〜,タケボーキ〜〜」竹ボウキを15本くらいまとめて肩に担いで,売りに来るおじさんがいた。当時,浦賀港から千葉の木更津へ連絡船が通っていたので,この方面の人が売りに来ると聞いたことがある。

 千葉は竹の産地。日本三大団扇(ウチワ)の一つ“房総団扇”は今でも健在だが,竹箒売りはいつの頃からか,その姿を消してしまった。
 





  
鋳掛屋さん
  
   
 ひび割れしたり,穴があいたりした金属製の鍋釜やヤカンなどを修理してくれる鋳掛屋と呼ばれる職人がいた。塀を背にしてムシロの上で,近所の家から頼まれた鍋釜類を,一心不乱に修理している姿を,学校帰りによく見かけたものだ。

 小さなひび割れや穴なら,その部分をカナヅチでトントン叩き,ひび割れや穴を小さくしてから,溶かしたハンダを流し込んで塞いでしまう。大きな穴は,リベットのような金属を穴に打ち込み,それを叩いて引き延ばしたり,金属の板をあてがい穴を塞ぎハンダづけしていた。

 当時はどこの家庭にも,接ぎの当たった鍋釜がいくつもあったものだが,今は100円ショップでもナベやヤカンを売っている時代。使い捨ての時代に育った現代の若者には,想像もつかない光景に違いない。  
 





  
煙突掃除屋さん
  
 
自転車に掃除用具一式を積み,煙突掃除をする商売があった。当時,風呂等の主燃料は石炭。煙突にススがたまると,不完全燃焼で火力が弱まり,一酸化炭素中毒にもなりかねない。そこでこの商売が成り立っていた。

 先端に,毛虫のお化けのような大きなブラシのついた,竹製の長い棒を輪にして自転車の荷台に載せ,お得意先を駆け巡り,身体中ススだらけ,真っ黒になり,一所懸命働いていた煙突掃除のおじさんの姿が,今でも目に浮かぶ。 
 





  
カサ修理屋さん
  
 
 「コウモリ傘の張り替え〜」「コウモリ傘の直し〜」おじさんは大きな声を張り上げ,カサの修理の注文をとりに町内を回る。修理の依頼を貰ったカサを小わきに抱え,何本かたまると修理が始まる。

 路上や空き地の隅に敷いたムシロに座り,ペンチやニッパーの小道具を使い,曲がった骨を治したり,折れた骨は,骨接ぎ用の小さな金具を使って補強したりして器用に治す。新品同様とは云えないものの,使用上は何ら問題ない。

 現代は使い捨ての時代。100円ショップでもカサを売っている。1000円出せば,中国製の結構立派なカサが買える。カサを修理して使う時代ではなくなったようだが,我が家の工具箱には,何年か前,ホームセンターで買い求めた骨接ぎ用の金具がいまだに眠っている。
 





  
紙芝居屋さん
  
 
 テレビやゲーム機のない時代,それに代わる楽しみは紙芝居だった。学校から帰り,午後3時〜4時頃になると,自転車の荷台に紙芝居のセットと売り物の水飴や駄菓子を載せておじさんはやって来る。

 自転車をいつも決まった空き地に置いて,カチカチ,カチカチ拍子木を打ちながら町内を一巡すると,子ども達が集まってくる。時には常連の子どもに拍子木を打たせ一巡する役を与え,ご褒美に売り物の水飴などを与えていた。

 集まってきた子ども達には,見物料?の代わりに水飴や駄菓子を売り,それが一段落すると,いよいよお待ちかねの紙芝居が始まる。当時は「黄金バット」や「少年王者」がヒーローで,血湧き肉躍る物語に夢中になったものだ。
 





  
ラーメン屋さん
  
 
 夜,チャルメラを吹き,屋台を積んだリヤカーを引きながらラーメン屋さんがやってくる。 「ドレミ〜レド ドレミレドレ〜」チャルメラの音に誘われお客が現れると,リャカーをその場に止め開店となる。

 お客が切れ目無く現れると,しばらくその場で開店しているが,客足が絶えると,再びチャルメラを吹きながら次の場所へ移動する。冬の寒い日,風呂帰りに食べた暖かいラーメンの味は,今でも忘れられない。その上,チャーシュウやメンマを少しおまけしてのせてくれるととっても嬉しかったことを憶えている。

 屋台のラーメンは,屋台で食べるのがあたりまえだが,時にはドンブリ片手に現れ,出来上がったラーメンをドンブリに入れて貰い,自宅で食べる常連さんもいた。インスタントラーメン全盛の現代では,とても考えられない光景だ。
 





  
氷屋さん
  
 
 母に良く氷を買いに行かされた。用途は小さな氷式木製冷蔵庫用や風邪を引いた時の氷枕用だったり。「一貫目ちょうだい!」と注文すると,おじさんが木製の氷室から,大きな氷をカニバサミでガチャッと捕まえ引っ張り出し,大ノコで小さく切ってくれた。

 “ガシガシガシ”大ノコが氷を切る音は心地良く,涼しげな響きがあった。ある程度切り進むと,大ノコの歯を返し,背の方を切れ目に入れて,パンと叩くと氷は綺麗に二つに割れた。まるで手品を見ているような気がしたものだ。
 





  
壺焼き芋
  
 
 冬が近づくと近所の八百屋さんの店先に,大きな壺が出現する。焼き芋用の壺で,壺で焼いたサツマイモは暖かく甘く,とっても美味しかった。

 どうしてこんなに美味しく焼けるのだろう?その秘密が知りたくて,おじさんにせがんで壺の中を覗かせて貰ったことがある。壺の底には七輪が入っていて,その中央に練炭,周りには豆炭が赤い炎を上げていた。

 壺の上部の周囲には,丸い金属製の輪っかが取り付けられ,金カゴに入ったサツマイモが何本も吊してあった。見終わるとおじさんは壺にフタをした。サツマイモをゆっくりと蒸し焼きにするので美味しくなるのだと,自慢そうに話してくれた。
 





  
駄菓子屋さん
  
 
 立て付けの悪い戸をガタピシと開け,狭くて暗い店に入ると,子ども達が喜ぶ駄菓子類が,所狭しと並べてあった。店にはいつもかっぽう着姿のおばあさんが,ニコニコと子ども達が来るのを,ネコと一緒に待っていた。壁には何故か一年中,奴凧や武者絵凧,羽子板がかけてあった。

 店には5円で引ける三角くじがあり,当たると豪華賞品?が貰えることになっていたが,滅多に当たらない。ほとんどハズレで,つまらないものばかり貰っていた記憶がある。それでも性懲りもなく行くたびに挑戦したものだ。
 





  
ゴミ屋さん
  
 
 現代のゴミ収集車は自動車だが,昔は大八車で収集していた。各家庭の外には,底面・両側面・背面がコンクリート製,前面とフタが木製のゴミ箱がおいてあり,中にたまったゴミをおじさんが収集していた。

 ゴミを沢山積んだ大八車を,おじさんは一人で引いていたが,平地はともかく坂道はきつい。息を切らしながら坂道を登っていくのを学校帰りに見かけ,後ろからそっと押してあげた。振り向いたおじさんの顔は嬉しそうだった。

 ようやく坂を登りきった時,おじさんは「ありがとう!」といって,お駄賃に五円もらった。とても嬉しかったことを今でも憶えている。
 

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