走水神社
針 供 養
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私共の生活文化の中で,衣・食・住・医療等,あらゆる面で貢献している針,この針に対して心を込めて感謝を捧げたいと念願致し,多勢の方々の賛助を得て,この走水神社境内に”針の碑”を建立することが出来ました。 今後は毎年2月8日を期して感謝祭を行うことになります。尚,碑面の歌は,遠い万葉の昔から針が生活の中に重要な役割をしていたという感動をこめてとりあげたもので,夫を防人(さきもり)に出す妻の歌です。 万葉集20・4420 椋椅部弟女(くらはしべのおとめ) |
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草枕 旅の丸寝の 紐絶えば あが手とつけろ これの針持し |
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この歌の解説を,永井路子氏の”万葉の恋歌”から引用しますと「父ちゃんよう,旅さ出だらば,ごろ寝つゞきで,はあ,着物の紐も切れるかも知んねえ,そんなときはよう,この針さ持って,自分で付けろよ,なあ」ということで訥々(とつとつ)とした中にも素朴ななんとも云えぬ味があります。 昭和58年2月8日建立 |
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針の碑建立の会 |
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針の供養は淡島信仰から始まり,江戸時代から一般家庭の女子は勿論,仕立屋,その他皆,裁縫を休み,針箱の掃除をし,人によっては,三宝に錦をしき,旧針を並べて床の間に置き,餅菓子とか六質汁(けんちん汁)を備えて供養し,また,折針,針の労苦を謝し豆腐などやわらかいものにさしねぎらう風習で,関東は2月8日に,関西は12月8日に祭っている。 | |
「針の碑建立の会」作成のリーフレットから転載 | |
針の碑が建立された1983年(昭和58年)2月8日,除幕式と「第1回感謝祭」が開催された。1996年からは名称が「針の碑感謝祭」,更に,2006年からは「針供養」と変更されたが,日頃お世話になっている針へ感謝し,それをねぎらう建立の精神は,脈々と現在に引き継がれている。 尚,開催日は当初2月8日と定められていたが,寒さを考慮して,最近では3月に開催。 |
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横須賀市長挨拶 |
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「針供養」当日,走水神社境内に足を踏み入れ,先ず目についたのは,おびただしい数の着物だった。会場周辺に張り巡らされたロープに,大小様々な着物が吊されている。そのいずれも真新しいが,それぞれ小ぶりな感じがする。誰が?何の目的で,?着物を眺めながら,あれこれ考えてみたが判るはずもなく,近くにいた氏子さんと思われる年配のご婦人に尋ねてみた。 ご婦人の話によると,これらの着物は故山地前宮司の亡くなられた母君が,コツコツと手縫いされた実用品のミニチュアで,子供~大人・男物&女物・下着~上着等々,総数150枚近くある。着物にはそれぞれ名札が付けられ,用途が記入されているものもある。普段は長持に納められているので拝見することは出来ないが,「針供養」の日,虫干しを兼ねて展示するようになったようだ。 最近では和服を着た人や,針仕事をする姿を滅多に見かけなくなった。和服が洋服に,針がミシンに代わり,更には既製服が当たり前となり,古びてくれば惜しげもなく使い捨てる時代である。私が子供の頃は,祖母や母親が,大人の着物を子供用に仕立て直したり,すり切れたり破れた衣類には,継ぎ接ぎをしてくれたものだ。そこではいつも針が主役であった。 「針供養」会場周辺に吊り下げられた着物を眺めながら,これらを手縫いされた前宮司の母君が,どんな心境でこれらのミニチュアを作られたのか?あれこれ思いを巡らせているうちに,自分が浦島太郎になったような気分になった。ここ100年足らずの間に,これらの伝統的な和服の大半が消え去ろうとしている。これはいったい何を意味しているのだろうか? 今や時代遅れになった感のある「針」と「針供養」。しかしながら,そこには日頃お世話になっているものへの感謝と,ものを大切にする気持ちが生き生きと息づいているように思われる。高価なブランド品の洋服を買い与えられ,室内でゲームに興じる子ども達,祖母や母親が継ぎ接ぎしてくれた着物で,日が暮れるまで「昔の遊び」に興じた子ども達,どちらが本当に幸せなのだろうか? |
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