幕末から続く横須賀の大型船建造に幕
住友重機械工業が造船から撤退

 住友重機械工業(株)は造船事業から撤退することを決め, 同社の100%子会社である住友重機械マリンエンジニアリング株式会社(以下SHI-ME)が行う,2024年度以降の一般商船の新規受注を停止,2023年度末受注残の製作完了をもって本事業から撤退するとことを決議したと発表した。

 SHI-MEは1897年(明治30年)に横須賀市浦賀で創業した浦賀船渠(通称:浦賀ドック)が前身。
同社は1962年(昭和37年)浦賀重工業(株)に社名変更。1969年(昭和44年)住友機械工業(株)と合併して住友重機械工業(株)を設立。1971年(昭和46年)船舶大型化時代に対応するため追浜造船所(後に横須賀造船所と名称変更)を建設。2003年(平成15年)に分社化された。
 

「浦賀・追浜百年の航跡」  創業時の追浜造船所
  
 SHI-MEは「中型タンカーNo.1」を掲げ,新造船事業及び修理船事業他を運営。順調に業績を伸ばしてきたが,2008年(平成20年)のリーマンショックを契機に船価が急落。受注隻数を制限し建造体制の見直しを行うなど,様々な手段を講じてきたものの,鋼材や資機材価格の高騰,船価の大幅な変動,中国・韓国との厳しい価格競争等々,新造船事業を取り巻く環境は悪化。将来的に事業を継続することは困難と判断し本事業から撤退することを決定したという。

 同社は昨年末現在で7隻の受注残があり,2026年(令和8年)1月に最後の1隻が完成する予定で,これを含めて1897年(明治30年)創業以来約130年間の建造総数は1345隻になるという。今後は建造船のアフターサービス・修理船事業は従来通り継続すると共に,洋上風力発電の基礎構造物や関連船舶事業の事業化を進め,造船に使用してきた土地の一部は住友重機械工業(株)の100%子会社・住友建機(株)が横須賀工場を建設して,油圧ショベルの一部機種を生産する予定という。

 尚,同社の造船事業からの撤退により,1865年(慶応元年)幕府の横須賀製鉄所(横須賀造船所)建設から約160年間続いた横須賀での大型船建造の歴史に幕を閉じることになる。横須賀市民で浦賀ドックOBの私としては,残念きわまりないニュースだが,嘆いてみても始まらないので,過去に本サイトに掲載した同社関連の記事やエピソード・写真等をここにご紹介したい。
 

在日米海軍横須賀基地 1号ドック
1865年(慶応元年)に建設され,現在も修理ドックとして稼働中


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黒船再来航 しらはま丸
浦賀船渠 歴史に幕
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ドックの祝日(昭和51年
谷内六郎「表紙の言葉」
  
 静かなドックの昼さがり、進水式らしく船の先にクス玉が割れ青空にテープが舞いました。造船日本という位で日本の海岸線には沢山巨大なドックがあります。あんまり巨大すぎて部分的にカットして見ないと絵にしにくいのが船の工場とか車の工場です。

 この絵は三浦半島の浦賀ドックのわきにあるお寺のある山からスケッチしたものをもとにして描いたものです。三浦海岸の浦賀水道は東京港や横浜港に出入りする内外の汽船できりもないです。あらゆる型の船が出入りしています。中にはあれが船か?と思うようなものすごいクレーンをつけた工場の箱のようなものも来ます。

 水面スレスレに砂利をつんだかなりコギタナイ船も入って来ますが、コギタナイ労働船ほど収入がいいのだと聞いたりもしました。アラビアの方に行く石油のタンカーもきりもなく通ります。浦賀、黒船来るの時代は遠いまぼろしです。
  
 (注)浦賀ドック : 浦賀船渠(株)→住友重機械工業(株)浦賀工場(平成15年閉鎖) 地元の人は通称ドックまたは浦賀ドックと呼んでいた。(kamosuzu)

週刊新潮・表紙
 

原画
(C)Michiko Taniuchi

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