申年にちなんで
「猿あれこれ」

 2016年,平成28年の干支は申(猿)。そこで観音崎と周辺地域及び我が家にある猿にちなんだあれこれを思いつくままに並べあげてみた。ご笑覧頂ければ幸いです。
猿田彦大神
破 魔 矢
絵 馬
土 鈴
庚申塔・三猿
猿  島
動・植物
大 看 板
お年玉切手シート
<番外>猿回し
<余談>猿田彦と手塚治虫

猿田彦大神
  
 猿田彦大神(さるたひこのかみ)は日本神話の神。天孫降臨の一行を天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)まで出迎え,高千穂峰まで先導した国神。天鈿女命(あまのうずめのみこと)の夫。後に庚申信仰や道祖神と結びついた。

 猿田彦大神(以下猿田彦と略)という「猿」に縁のある名前の由来を知りたくてあれこれ調べて見たが,諸説あって決め手が無い。たまたま大阪の綱敷天神社のHPに諸説が掲載されていたのでいくつかご紹介したい。
 @琉球語で先導役を指す「サダル」が「サルタ」になった。
 A伊勢の狭長田(サナダ)という地名が名前になった。
 B動物の猿が田の神・山の神とされる民間信仰に由来する。
 C「サ」は神稲の意,「ル」は「の」の意で,「神稲の田」。
 D文字通り猿の意で,太陽の使いが守る神田の神。
 
 観音崎周辺の神社の祭礼では,神霊が宿ったご神体を神輿に移して氏子地域内を御幸(ぎょこう,みゆき)したり,渡御したりするが,その行列の先導役はいずれの神社も猿田彦が務めている。おそらく日本神話に習ったのだろう。

 各神社の先導役として登場する猿田彦は,揃って背が高く,異形な風貌で赤い顔に長い鼻,そして高下駄を履いているが,1本歯もあれば2本歯もあり同一では無い。顔つきは少しずつ異なり,髭が有ったり無かったり,装束もそれぞれ違っていて同じでは無い。恥ずかしながら,私はつい最近までこの神様を天狗だと信じていた。しかしながら,猿田彦を天狗の原型とする説や赤鼻の天狗とされることもあるようだから一安心。

 行列の写真を整理していて,猿田彦のお役目が大変な難行苦行?ということに今さらながら気付いた。祭礼の時期は走水神社の秋季例祭を除けば,7月と9月の暑い盛り。祭り参加者の装束や見物人の衣服はいかにも涼しげ,それに対して猿田彦の装束は厚手の生地の上に重ね着をしているのだろう。出発時と帰還時の姿勢の違いにそれが現れている。

 比較的涼しい10月中旬に行われる走水神社の秋季例祭でもそれは明らかで,出発時は背筋をピンと伸ばし高下駄を履いていたのが,途中では高下駄を脱ぎ,お面を少し顔から離して呼吸しているように見える。そして神社へ帰還した時は,両脇から付け人に抱えられるようなヨレヨレ状態。それもあってか,夏季例祭では10時間に及ぶ海上渡御や町内御幸に備え,最初から面もつけず,高下駄も履いていない。いかにも現実的で微笑ましい。
 
鴨居・八幡神社
 

2009.7.26

2012.7.29
東叶神社
 

2011.9.11
西叶神社
 

2010.9.12
走水神社
 
秋季例大祭
 

2006.10.15

2006.10.15

2007.10.14
夏季例祭
 

2009.7.19

2005.7.24
破 魔 矢
 

鴨居八幡神社
猿の絵馬
 

西叶神社の説明板

鴨居八幡神社

東叶神社

西叶神社

西叶神社

西叶神社
猿の土鈴
      
 初詣に行くとほとんどの神社仏閣で,お守り等と並んで土鈴が置いてある。我が家では毎年,地元の鴨居八幡神社でお守り札・破魔矢・絵馬と共に土鈴を頂いてくる。松の内が過ぎると,土鈴以外は神社へお納めして,さいと焼きの時に焼却して貰う。土鈴は居間の飾り棚に並べることにしている。
 

西叶神社の説明板

2016年 鴨居八幡神社

2016年 西叶神社

川崎大師参道のお店で2003年に購入した土鈴


庚申塔・三猿
 
 庚申塔(こうしんとう)は,中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔。村境や三叉路に造立され,悪疫などの侵入を防ぐと信じられていました。わが国では室町時代にはじまり江戸時代には隆盛をきわめました。

 「庚申縁起」によれば,六十日ごとにまわってくる庚申(こうしん,かのえさる)の夜,人の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に昇ってその人の罪禍を天帝に告げるため生命を縮められるといわれました。人々は「講」を結んで,その夜は眠らず身を慎んで過ごし,延命招福を祈念しました。 ※浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から引用

 庚申塔の石形や彫られる仏像,神像,文字などは様々だが,仏教では庚申の本尊が面金剛とされるため,像の他に文字だけが彫られることもある。また,神道では猿田彦が本尊とされるため「猿田彦大神」の文字が彫られていることが多い。

 「申」は干支で「猿」に例えられることから,石塔の下部に「見ざる,言わざる,聞かざる」の三猿が大半の塔に共通して彫られている。これは三猿を三尸(さんし)の虫になぞらえ,罪禍を天帝に報告させないためという説もあるが定かではない。

 江戸時代隆盛をきわめた庚申信仰の塔は,仏教系のものがほとんどであったが,大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年(1868年)発せられた神仏分離令によって引き起こされた廃仏毀釈運動によって,仏教系の庚申塔の多くは,除去されたり,破壊された。その代わりに猿田彦の塔が建てられたところもあるようだ。

 廃仏毀釈運動により,多くの仏教系庚申塔が除去・破壊されたが,一部は信心深い人々により秘かに人目につかない場所へ運び込まれ保存された。運動が終息した明治4年(1871年)以降,徐々に復活したようだが,事情もあってか元の場所へ戻されたものは少なく,寺院の境内や特定の場所へ集められたものがほとんど。

 現在,観音崎周辺地域には15ヶ所に77基の庚申塔が残されているが,仏教系庚申塔が72基(造立年:江戸69基,明治3基),神道系庚申塔5基(造立年:,明治4基,大正1基)。※詳細は庚申塔のページ参照
 
青面金剛刻像塔の各部名勝
 

「浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」案内板から
典型的な青面金剛刻像塔
  

鴨居・西徳寺境内
青面金剛刻字塔
 

走水・覺栄寺領内
猿田彦大神刻字塔
 

鴨居・稲荷神社境内
珍しい最古の庚申塔
 この塔は寛文13年(1673年)に造立されたもので,観音崎周辺地域では最古の庚申塔。塔の形や刻像・刻字等も三猿以外は他に類を見ない珍しい庚申塔。「南無山王二十一社」と刻字されていることから,この塔は山王信仰と庚申信仰が結びついたものと推測される。
  
 
走水・覺栄寺領内


猿   島
 
 観音崎周辺地域で「猿」から連想するものと言えば先ず「猿島」が挙げられる。最近では「モンキーアイランド」とも呼ばれているようだが,島には猿も人間も住んでいない。東京湾唯一の無人・自然島。

 猿島の名前の由来は諸説あるが,猿島航路を運航する(株)トライアングルのパンフレットによれば,「建長5年(1253年)5月,日蓮上人が房総から鎌倉へ渡る途中で霧に覆われ,船の進む方向さえわからなくなった時,どこからともなく一匹の白猿が現れ,船のへさきに立ち島へ案内したという言い伝えから,「猿島」という名がついたとされています。」とある。

 猿島の面積は5.1ha。東京ドーム(4.675ha)より若干大きい程度。観音崎公園の70.4ha15個分と比べると小さいが,観音崎同様,豊かな自然と貴重な歴史遺産が残され,海水浴場があり,砂浜でバーベキューができ,片道10分間ではあるが短い船旅も楽しめるとあって,特に若者に人気の観光スポットとなっている。
 
 観音崎公園内から猿島を眺めることができる場所は東京湾海上センターの屋上のみ。ところが,センター内は一般公開されていないため,屋上に立入できるのは7月第3月曜日の「海の日」と11月3日の「観音崎フェスタ」の特別公開日2回だけ。

 その貴重な特別公開日にセンター屋上から猿島方面を眺めると,手前に観音崎京急ホテルと防衛大学校走水宿舎の白い建物,その右後ろに走水漁港と旗山崎(御所ヶア),そしてその奥中央の海上に猿島を目にすることができる。

 一方,猿島から観音崎方面を眺めると,手前に走水小学校の校舎,その後ろに日本武尊・弟橘媛縁の旗山崎(御所ヶア),更にその奥に東京湾海上交通センターの白い建物が目に入る。

 観音崎−猿島間にはかって(株)トライアングルが運航する乗船時間20分ほどの観音崎航路があった。横須賀美術館が開館した2007年4月から運航開始。1日3往復運航されていたが,乗船客数の伸び悩み,燃料費の高騰,大震災の影響などの理由により2011年10月末休止されてしまったのは残念。復活を期待したい。
 

(観音崎)東京湾海上交通センターから猿島方面の眺望

猿島から観音崎方面の眺望
猿にちなんだ動・植物
  
サルトリイバラ(猿捕茨)
 
 ユリ科のつる性半常緑低木。つる性の茎にはトゲがあり,その茎を伸ばして辺りの木々の枝に絡みついて藪のようになり,そこに猿が追い込まれると身動きできなくなってしまうであろうということからついた名前。

 新芽や若葉は観葉植物のように美しく,赤く熟した鮮やかな丸い実も魅力的で葉が枯れてもそれなりに風情がある。以前は,観音崎でも数ヶ所で見ることができたが,厄介者として刈り払われ,最近では消滅寸前になってしまった。
 

2009.3.31

2006.4.21

2012.7.3

2009.11.16

2005.12.28
サルスベリ(百日紅・猿滑)
 
 ミソハギ科の落葉小高木。幹の成長に伴って古い樹皮がはがれ落ち,その部分がつるつるすべすべしていることから,猿が登ろうとしても滑ってしまうであろうとつけられた名前。実際には,猿は滑ることなく簡単に登ってしまうようだ。漢字では「百日紅」と書き,これは開花期間が長いことに因んでいる。観音崎では,「海の子とりで」と「花の広場」の境付近,横須賀美術館の谷内六郎館付近に植栽されている。
 

2013.8.7
 

2008.8.8
サルノコシカケ(猿の腰掛)
  
 ヒダナシタケ目に属するキノコの一種。樹木の幹に生じる半月状の木質のキノコで,硬く,猿が腰掛けられるような形状・大きさになることからこの名前がついたといわれる。一部には食用として珍重されるものもあるようだが,通常は硬すぎて食用にされていない。昔から抗癌作用や免疫作用があるとされ,漢方薬や民間薬として用いられているが,過度の効果を期待するのは禁物と思われる。

 しかしながら,2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士は,ゴルフ場の土から見つけた微生物から,熱帯にはびこる寄生虫による熱帯病治療薬の開発に貢献したことが評価されたという。1981年以来,日本人の死因のトップは「癌」。おそらく「癌」は世界でも死因のトップクラスと思われる。サルノコシカケから「癌」の特効薬を開発できたら,ノーベル生理学・医学賞の受賞は間違いないのだが?
 

コフキサルノコシカケ  2006.9.15

ツリガネタケ  2010.11.9

ヒイロタケ  2002.9.24
猿顔の冬芽
 
 落葉樹の仲間達は冬の間,着々と春の準備を進めていますが,葉がついていた跡や小さな葉や鱗片に包まれた「冬芽」と呼ばれる木の芽には,サルの顔のような面白い形をしたものが見られます。

カキノキ

オニグルミ

センダン
「サル」はまるみがかった体がサルに似ているという説。
アカガネサルハムシ
(赤銅猿葉虫)
 
 ハムシ科の体長5〜8mm程度の小さな虫。5〜6月頃出現。メタリックな虹色に輝く美しい虫だが,ブドウ・エビヅルなどの葉を食べ,ブドウの害虫として知られている。名前に何故「猿」がつくのか?由来を調べてみたところ,「丸味がかった身体が猿に似ている」という説もあるようだが,定説はない。

大 看 板
 
 西叶神社近くにある西源材木店の店頭には,商品の材木を並べて立てかけ,カラースプレーで絵と文字を書いたと思われる新年挨拶の大きな看板が飾られていた。普通,店舗や施設の新年挨拶はA4かA3サイズの用紙が使用されているが,西源材木店の店頭に飾られたそれは畳十畳くらいはある超特大サイズ。カラースプレーで一気に書き上げたと思われるが,なかなか見事な出来映えで,猿の尻尾で「さる」と書いているのに帰宅後気づき,改めて驚かされた。
 

お年玉切手シート
    
 お年玉付年賀はがきの賞品「お年玉切手シート」の絵柄は,年によって異なるが,干支の郷土玩具が多い。我が家には昭和43年(1968年)以降の申年の切手シートが5種類保存されていた。
 
延岡の張子・のぼりざる
1968年 (昭和43年)
堺湊焼・喜々猿
1980年 (昭和55年)
金沢の張子・猿の三番
1992年 (平成4年) 
姫路張子・出世猿/ 伊予一刀彫・三番叟
2004年 (平成16年)
大津絵十二支土鈴/土佐和紙漆喰張り子
2016年 (平成28年)
<番外>猿回し
 
 テレビや新聞で名物の藤が見頃と知り,家内と東京・亀戸天神へ出かけた。型どおりの参拝の後,満開の藤を見物。私は観音崎の野趣溢れるフジが好きだが,手入れの行き届いた藤棚の風情もなかなか見応えがある。その藤棚の上を何気なく見上げると,東京スカイツリーが大きな姿を覗かせていた。考えてみれば亀戸天神とスカイツリーは目と鼻の先で当然のことだったが,私も家内も想定外のハプニング。天神様から早速ご利益を戴いたような気分になった。
2014.4.24
 
 満開の藤とスカイツリーのコラボにすっかり大満足。帰りかけたところで,境内の一画に若い女性と猿がなにやら準備中なのに気づき,しばらく眺めていると猿回しが始まった。猿回しを見るのは何十年ぶりのことだろう?私が子供の頃は,正月や夏祭りの時などに見かけた記憶があるが,最近では日光猿軍団をテレビで見るくらいで,大道芸としての猿回しを見た記憶がない。おそらく60数年ぶりのような気がする。

 竹馬乗りや高飛び,そして反省のポーズ等々,懐かしさと面白さであっと言う間に演技終了。終了後,猿使いの女性はザルを持って見物人の前を歩き出したが,恥ずかしさもあってか?誰も投げ銭を入れようとしない。私の前に来た時,思い切って千円札を投げ入れた。それを見て周りの見物人も次々とお札やら硬貨を投げ入れた。帰宅後,家内から「若い可愛いお姉さんだったから奮発したのでしょう!」と皮肉られてしまったが,猿回しに出会えたのも天神様のご利益に思えた。
 帰途,亀戸天神名物くず餅の老舗,創業210数年の歴史を誇る船橋屋に立ち寄ったが,延々長蛇の列。行列が嫌いな私は退散することにしたが,行列の最後尾近くに,携帯電話の普及で,最近あまり見かけなくなった公衆電話ボックスがあるのに気づき,記念に写真を撮って帰宅した。
 
<余談>猿田彦と手塚治虫
画像:(C)手塚プロダクション
火の鳥
 
 猿田彦大神(以下猿田彦と略)についてあれこれ調べている過程で,手塚治虫の代表作「火の鳥」を思い出した。主役は火の鳥だが,猿田彦及びその子孫は,第一作の「黎明編」から始まり全編に亘って重要な役割を担って登場する。手塚治虫は猿田彦をどのように描いているのだろうか?
 
猿田彦の天狗鼻
 
 猿田彦の特徴は天狗のように大きな鼻だが,生まれつき大きかったわけではない。元々は豚鼻であったが,「ナギを殺せ!」との女王ヒミコの命に従わなかったためその逆鱗に触れ,罰としてマダラバチの穴蔵に押し込められ,顔や身体を刺され全身が無残に腫れ上がってしまった。その後,ヒミコの弟スサノオの反乱,日食のドサクサに紛れてナギに助け出されが,身体や顔の腫れは治ったものの,何故か鼻だけは豚鼻に戻らず天狗鼻になってしまった。その後,この天狗鼻が彼の子孫の特徴になった。……「黎明編」
   
 
   
猿田彦と天狗
  
猿田彦と天狗について,手塚治虫は「黎明編」の中で次のように記している。

 「神話によれば 天孫ニニギノミコトが下界へおりてきたとき 途中で怪神サルタヒコノミコトに出会ったという サルタヒコノミコトは 普通テングの先祖といわれている 顔つきが恐ろしく鼻が異常に高い いろいろな絵にかかれているテングは 行者の姿でいかめしいが 鼻の高い顔は ボルネオあたりにすんでいるテングザルというサルに非常に良く似ている 南方から大昔わが国にわたってきた日本人の祖先たちが このサルの印象を テングにたくしたと いえないこともない また サルタヒコは もともと九州に住んでいた原住民の酋長ではなかったかともいわれ(イギリスのチェンバレンの説) 外国から流れ着いたニニギノミコト一行に 降参したのではないかとも思われる この物語の中では 猿田彦は ただの防人ではあるが 彼の子孫は 物語全体を通じていずれも重要な役割を持つようになるのである」
輪廻転生
 
 天才漫画家・手塚治虫のライフワーク「火の鳥」。不死鳥の火の鳥を軸に「輪廻転生」をメインテーマとして人間の「愛」「生」「死」を壮大なスケールで描くその作品は,他に類を見ない不朽の名作と言える。

 手塚治虫は「輪廻転生」について「鳳凰編」の中で,猿田彦の生まれ変わり我王から「乞食坊主!くそ坊主!」と罵られた良弁僧正が,我王に対して次のように諭している。
 「車がまわるのを見るがよい くるくると同じところをいつまでも 際限なくまわりつづけるじゃろう 人間の命もそれとおなじでな 人間が死んでもそれはべつの生きものに生まれかわって……つぎつぎに生まれかわっては死に また生まれかわって……いつ果てるともなく永久につづくのじゃ……おまえさんも生まれかわる前はべつの生きものだったんじゃ べつのな……」
 
 
猿田彦の子孫
 
 猿田彦は輪廻転生により名前や姿形を変え,重要な役割を担って度々登場するが,天狗のように大きな鼻が共通しているのが特徴。私はその子孫の中に,手塚治虫とお茶の水博士を加えたい。

 手塚治虫は「火の鳥」に重要な役割では登場しないが,「黎明編」に前後のストーリーとは全く無関係に二コマだけ突然登場する。映画のヒッチコック監督よろしく彼は自作の漫画に時折登場するが,その自画像の鼻は異常に大きい。ヒョッとすると彼は自身を猿田彦の子孫と秘かに信じていたのかもしれない。

 彼の代表作「ブラック・ジャック」では,友人の鼻の大きな医師として度々登場する。手塚治虫は医師免許を持っていたが,大阪帝大医学専門部の時代から既にプロの漫画家として忙しく,職業医師として活動できなかった彼らしい登場の仕方だ。

 一方,鉄腕アトムの育ての親・お茶の水博士については,「火の鳥」での出番こそないが,手塚治虫には「火の鳥・アトム編」の構想もあったと聞く。どのような理由で実現しなかったのか定かではないが,もし,実現していれば当然の事ながら,猿田彦の子孫として登場したはずだ。
 

猿田彦「黎明編}
 

我王「鳳凰編」

矢儀家正「異形編」

おやじさん(シャドー組織の首領)「太陽編」

手塚治虫「黎明編」

手塚治虫(ブラック・ジャックの友人の医師)「執念」

猿田(宇宙飛行士)「宇宙編」

猿田(アンデス研究所研究員)「生命編」

猿田博士「未来編」=本間丈太郎「ブラック・ジャック」

お茶の水博士「鉄腕アトム」=へぼ医者&寿司屋の旦那「ブラック・ジャック」
手塚治虫と団子っ鼻
  
 それにしても,手塚治虫は何故?彼の作中に鼻の大きな人物を重要な役割で登場させたり,自身の鼻も同様に大きな団子っ鼻に描くのだろう?私は先に「ヒョッとすると彼は自身を猿田彦の子孫と秘かに信じていたのかもしれない。」と述べたが,これではあまり説得力がないように思える。

 そこで,手塚治虫の団子っ鼻について,なにか手がかりはないか?ネットであれこれ検索したところ,児童文学作家・故上野瞭氏の著書『われらの時代のピーターパン』「だんご鼻」の魅力ー手塚治虫というエッセイを見つけた。早速読んでみたが,読解力が乏しい私にはいささか難解で,わかったような?わからないような?というのが正直な感想である。

ブラックジャック「目撃者」の漫画家・手塚治虫
手塚治虫「火の鳥」について詳しくはこちら
手塚プロダクションのホームページはこちら
画像等の無断転載・転用は固 くお断り致します。
観音崎の雑記帳TOP  HOME